百十四(そのニ)、講談は浪曲に発展した
十ニ月十七日(木)「或る女流講談」
或る女性真打の講談を聴いて思った。講談は自分の言いたいことを主張する場ではない。
講談の内容は町人の娘が大名の側室になり騒動を起こす話であった。女性講釈師は、町人の娘と大名について、女にとり生理的に嫌いな男というのがいる、というようなことを言った。もし観客のほとんどが女性で私だけたまたま会場に混じっていたのなら別に問題とは思わなかった。しかし実際には観客のほとんどが高齢の男性である。たまたま夫婦で来ている人がいた程度である。この女性講釈師は知人にたまたま生理的に合わない男がいるのかも知れない。しかしそれは個人の話である。
更に問題がある。世の中には男の身勝手というものがある。女の身勝手というものもある。皆が生理的に嫌いだなどと言っていたら世の中は成り立たない。円満な男女関係を築くように世の中を導くことは公衆に向かい話をなす者の務めである。最近の未婚者の増大はマスコミに踊らされ男も女も三高だのイケメンだのと身勝手になった結果である。
婚活を始めました。結婚することになりました。相手の親に今日会いに行きます
とブログに日を追って書いたその最後の日に婚活詐欺女に殺害された男性などはまさに被害者である。
三高だのと言っていると、玉川カルテットの「あたしゃも少し背が欲しい」と謡っている人はいったいどうすればいいのだ。国民はまず社会の永続ということを考えなければならない。
十二月十九日(土)「講談協会分裂」
東京の講談協会はこれまでに二回分裂している。一回目は昭和四十八年に神田山陽の弟子の女性がポルノ講談とかを始めた。他の師匠方から苦情が出たが講談協会会長の神田山陽は「行き過ぎだが、若い人には自由にやらせたほうがいい」と答えた。そして講談協会は分裂した。講談の席で相手側の悪口を言うので観客が減って寄席から苦情がでた。
その後合同したが、上野本牧亭を発行所とする講談雑誌で神田山陽はこのときも相手側を批判している。合同するときは過去のことは水に流すべきなのに、そこで蒸し返して批判するようでは先が思いやられる。事実再び分裂し現在に至った。そして上野本牧亭は閉店した。
歌舞伎役者が歌舞伎の最中に自分の意見を言うことはない。俳優がテレビドラマで好き勝手なことを言うはずもない。講談も個人の主張は言うべきではない。
十二月二十日(日)「講談復活」
講談の特長は一つ目に「話の内容」、二つ目に「伝統の話術」である。
まず「話の内容」を考察してみよう。講談は明治維新までは庶民の貴重な知識源であった。しかし学校教育と書籍によって講談の内容は既知のものとなった。学校と講談社こそ講談のライバルである。
「伝統の話術」については、マイクとスピーカーの出現により話術の価値は半減した。誰でもつまらない話を長々とできるようになった。ここで講談協会のすべきは張り扇の一般化である。演説や講義のときに一般人が張り扇を使うことは有益である。話す前に二回パシッパシッとたたく。演説や講義で重要なところで、一回パシッとたたく。
まず有名な政治家や教授に使わせ、国民の関心が集まった時点で張り扇を企業に製造させ東京や大阪の講談協会の公認マークを入れる。公認が重要である。一般化だけでは講談が忘れられてしまう。公認料を取ろうとは考えずに無料で行うべきだ。最後に、本家本元の張り扇使いですということで講釈師の登場となる。パシッ。
十二月二十二日(火)「講談から浪曲へ」
浪曲は明治時代の初めに説教節、貝祭文、阿呆蛇羅教などの大道芸から発達したと言われている。しかし正しくは明治期の経済発展と大道芸の禁止で、講談とこれら大道芸の音楽要素が合併したと見るべきであろう。
この当時、大道芸は講談よりはるか低く見られていた。だから人的移動はない。しかし明治の時代の流れで講談の発展したものが浪曲。そう考えるべきであろう。
十二月二十四日(木)「二冊の正反対の書籍」
ここで二冊の正反対の立場から書かれた書籍を紹介しよう。一冊目は十二年前に出版された立正大学教授(当時)小山一成氏の著書「貝祭文・説経祭文」、もう一冊は九年前に出版された元埼玉大学教授斉藤裕己氏の「声の国民国家」である。前者は浪曲の母体となった貝祭文と説経節について書かれ、後者は浪曲そのものについて書かれている。しかしそれ以上の正反対ともいうべき違いがある。前者はこれらを保存しようという良心的な立場に立っているが、後者は日本のものは劣り欧米のものが優れているという偏った立場から書かれている。
十二月二十八日(月)「小山一成氏の「貝祭文・説経祭文」紹介(1)」
小山氏は序文でまず文政十三年の『喜遊笑欄』を紹介したのちに、
- いったいこの山伏の祭文語りとは何物か、また俗人でしょうじ錫杖と小型の法螺貝とを伴奏楽器として説教節を語った芸人とは何者なのか、
と述べている。そして貝祭文については
- 祭文(さいもん)は、本来仏教・神道・陰陽道・儒教等において、祭祀の際に、祭神や亡霊に奏上する祈願の文であり、(中略)平安時代になると山伏の手に渡り、山伏祭文となり、さらに中世期には娯楽的要素を加えてもじり祭文となって人口に膾炙した。降って江戸時代の寛永頃になると既述のごとく上方において歌祭文が派生し、(中略)さらに近世後期には、江戸の地において山伏祭文から説経節の後裔なる説経祭文--薩摩派・若松派として盛行--が誕生し、加えて関東の地に本章で話題の貝祭文が出現したのであった。
- 江戸市中に興った説経祭文は、幕末より近代にかけておもに江戸周辺農村部に絶大な支持者を得てその他に盛行した。いっぽう貝祭文は武州北部の岡部・小島等に本拠地を置いたが、やがては福島・宮城・岩手・山形・秋田・青森等奥羽地方に中心地を移していったのである。
- 藤原勉氏の報告によれば、昭和十四年当時当時山形県祭文演芸共和大会に所属する祭文語りは約七十名にものぼり、公演可能の者三十名であり、農閑期にはかれらは県下の農山村を始め、宮城・岩手・新潟等海岸地方にまで巡回していたのである。しかしその後は漸減し、昭和末期にはわずかに次の三名が残るのみとなってしまった。
- 近年十一代目、十二代目はともに世を去ってしまった。(中略)十三代目も高齢のため旅に出ることはまったくない。もと東北かの村々から祭文語りの姿を見ることはないのである。
十二月三十日(水)「小山一成氏の「貝祭文・説経祭文」紹介(2)」
- 東京におけるおける終焉期の祭文について森銑三氏が「大道芸のはなし」(『月夜雲』所収)の中で語っているので紹介する。
デロレン祭文も浮かれ節と同等の地位にあったものですが、これは錫杖と法螺の貝とを持って二人竝んでしますので、その一人が演者で、一人は三味線の格になるのです。(中略)寄席へは出ずに消えてしまいました。
今でも水戸の何丸とかいふ老人が時々東京へ出て来て演じますが、これは浪花節の影響を受けて、上品な艶のあるものになっていゐます。昔のでろれんは下品で、野趣に富んだ、勇ましいものでした。
- 上州祭文(中略)の江戸東京での活躍は明治中期までであって、それ以後は活躍舞台を東北地方や近畿、中国地方へと移していったのであった。
一月三日(日)「木馬亭正月特別番組」
本日は客の入り具合と反応を調べる目的もあり、木馬亭の正月特別番組を観た。普段は二千円だが正月は二千五百円で代わりに漫談など他の出し物が加わる。ある出演者が「お忙しい中を、そして生活が苦しい中をようこそおいでくださいました」と挨拶したが、まったくそのとおりである。暮れのボーナスがなくて生活の苦しい中を二千五百円捻出したのであった。
上演は一日一回でこの日の入場者は約八十名。トリの澤孝子は左甚五郎の「猫餅の由来」を演じた。さすがに上手だった。観客が「三日前の餅」と先に言ってしまったときの対応もよかった。幕が閉まる寸前にご祝儀と物品を澤孝子に贈る観客もいて、正月にふさわしい盛り上がりであった。木村若友師という九十九歳の浪曲師も現役で出演した。講談の神田松鯉師もよかった。今回の講談浪曲シリーズを特集するに当たり、講談と浪曲の寄席に一回ずつ行く予定でいた。しかし講談をインターネット、木馬亭、CDで聴くたびに下手なので、浪曲寄席を二回観ることにした。その二回目に上手な人が出てきて講談を見直すことができた。
浅草の他の興行場(木馬館、浅草演芸ホール、東洋館)の入り具合も外から調べた。木馬亭と同じ建物の二階にある木馬館は、劇団の上演で昼夜の二回。開演一時間前に五十人ほど並んでいた。定員は百七十名ほど。入場料千六百円。浅草演芸ホールは一部から四部まで一日四回の上演。満席であとは立見席のみ。この日はNHKの中継が途中入ることになっている。四階はまだ座れます。出演者はほぼ同じです。と外ではっぴを着た案内係が叫んでいた。四階は東洋館で普段は漫才だが正月は臨時に第二浅草演芸ホールとなるようであった。入場料はどちらも三千円。定員は三百四十名に加えて立ち席。東洋館は定員二百名。
浪曲を落語並みに繁盛させる方法はないだろうか。その前にまず小山氏の「貝祭文・説経祭文」紹介に戻り、それを活かしながら方法を考えてみよう。
一月五日(火)「小山一成氏の「貝祭文・説経祭文」紹介(3)日本海新聞の記事・その一」
「貝祭文・説経祭文」は昭和二十七年二月九日の日本海新聞の記事を紹介している。
- 祭文といえるも、もとはその人一生の善事慰をあげてその人を弔う文なり。悲哀を主として人を泣かしむることなれども云々。(南水漫遊拾遺)とあるように、祭文の起原は陰陽道系統の呪詞に発して神佛または人物を賛歎するためのものであつたらしい。その点では、佛家の説経に発する説経節とよく似ているのだが祭文は神道、佛家、儒家それぞれに用いられ、それぞれの形式があつたことが明らかにされている。
- 心中祭文のように三味も入らず、まして胡弓にもあわせぬところは歌説経ともちがう。シャク杖と法ら貝にあわせて語る古くからの「祭文」である。
- 祭文を語るには明治初年まで、ケサをかけたし、それ以前にはトキンなどもつけたらしい。
- 語り物は、義士銘々傳。里見八犬傳。いかるが平次。大岡裁き。安宅関。頼光大江山。(中略)その他「何十とある」ので数え切れない。
- 法ら貝は、一の貝、二の貝、三の貝、サワリ、ノリと吹き分けられる。(中略)「坂こしで急ぎけるー、ウーウー」(中略)。「ウーウー」が貝である。ブーブーと吹鳴すのでなく、語る声を貝に吹き込んでいわば拡声器みたいにするわけだが、もちろん貝そのものの音色も入るから得意な味のある響きとなり、(以下略)
一月七日(木)「小山一成氏の「貝祭文・説経祭文」紹介(4)日本海新聞の記事・その二」
- 江戸祭文は白声で力みを第一にしたといわれるが、発声法も節も古風でやや単調ではあるがなかなか趣きのあるものだ。「節が違うだけで、あとは浪花節とまるで同じです」との説明のとおり、浪花節の古風なものと想像してもらえばいい。
- 浪花節はちょんがれ、浮かれ節から出たものだが、初期には卑しまれ語り手は下座から上座の客に向って語ったが、祭文は上座から客を下座にして語ったのだそうである。歌謡史の上で、ちょんがれ、そのまた源流は祭文とされているが、卑しまれたちょんがれ、浮かれ節が今日では浪花節としてなお大衆に愛好されているのに、上座から語った祭文はすでに忘れ去られ、限られたわずかな人にかすかに受けつがれて余命を保っているのは皮肉である。
一月八日(木)「小山一成氏の「貝祭文・説経祭文」紹介(5)朝日新聞三重版と信濃毎日新聞の記事」
小山氏は朝日新聞三重版の昭和三十年六月二十日の記事も紹介している。
- 時代の波とともに消えさろうとしている「祭文」を世に出すとともに後世に残そうとNHKでは(中略)山崎明春さん(六四)の名調子を録音することになった。
- (「祭文」は)修験者たちによって普及したものらしく「祭文経」と呼ばれていたのが、いつの間にか「祭文」と略されたもので(中略)、語る人も半僧半俗のものが多く、はじめは説法などに語られたという。
- 明治八年「チョンガレ節」と呼ばれ、その後「浮かれ節」ついで明治三十八年浪花節にかわって、広く民家の中に食いるようになったもので節回しはジョウルリに似通っており、三味線のかわりにホラ貝の節に合せる。
- 最近は老衰からほとんど語る機会もなく、このままでは祭文が消え去るおそれがあると、郷土芸術に深い研究を続けている同市桃青中学校音楽担任の東仁己教師が惜み、録音して保存しようとしたこともあり、今回同教師らの肝いりでNHKが録音することになったもの。
この当時は音楽教師にも伝統音楽の保存に尽力する人がいたことがわかる。現在はどうだろうか。
同じく、信濃毎日新聞の昭和六十二年七月三十日の佛教大学教授関山和夫氏の寄稿も紹介している。
- 私が子供であった昭和十年ごろ、父が浪曲師のことを「サイモンカタリ」といった。私には、どうして浪曲師が「祭文語り」なのか長い間わからなかった。
- 祭文は浪曲(浪花節)の源流であり、わが国の芸能史上には、祭文ーーちょんがれーー阿保陀羅(あほだら)経ーー浮かれ節ーー浪花節(浪曲)という系譜があることがわかったのである。
- 祭文は、もとは神前に祝詞(のりと)や祈願の心を奏上する謹厳な文章であり、儒教や仏教が伝来してからは宗教界全般で用いられるようになった。ところが、平安時代には、すでに興味本位の、”もじり祭文”が山伏たちによって行われた。
祭文は、仏教の声明(しょうみょう)で唱えられたので、曲調は、おごそかなものだったが、次第に俗化して娯楽的な”そそり節”となり、江戸時代には歌祭文になってしまった。
- 江戸末期には演奏の形態が整備されて「デロレン、デロレンデレレン」という発声で「一の貝」「二の貝」「三の貝」の順序で声の調子をととのえて遠大にとりかかる。悠歎場で十分に聞かせ「たたもこみ」があり、「切り場」をもつて一席を終える貝祭文は、説教物、恋愛物、武勇伝、仇討物などを主とした長編の「語り物」で、白声(しゃがれ声)による太い力見(りきみ)声で語るのが特徴である。
- 貝祭文は、かつて東北の山形地方で流行し、計見(けみ)山口、桜川などの七流が技を競ったが、次第に衰退し(中略)、ついに貝祭文の伝統は絶えてしまったかと思われた。
ところが、貝祭文は生きていたのだ。滋賀県に根強く残っていたのだ。それは、今日では「江州音頭」の名で知られているもので(中略)、屋台音頭と座敷音頭の二種類がある。
- 江州音頭のレパートリーとしては「鈴木主水」「阿波の鳴門」「石童丸」「八百屋お七」「鈴ケ森の権八」「葛の葉」「先代萩御殿」などのほか、修羅場も多数あり、笑いと涙をないまぜにして民衆を楽しませたものである。
- 江州音頭は、明治時代に大阪の寄席にも登場して人気を獲得したが、昭和に入ってから屋台音頭ばかりに力を入れたためか、次第に変容してしまった。しかし、わずかな人たちによって座敷音頭が継承されていたことは、まことに幸いであった。
白声、力身について小山氏は次のように書いている。
- 村井市郎氏によれば「白声」とは密教徒や修験者の専門用語であって、「平声(ひらごえ)」の対立語という。つまり、「平声」は通常の柔らかい声を云うが「白声」は喉をつろた硬い声で、調伏五壇法ー不動明王を忠臣に五大明王を祭る壇の前で、怨敵退散、悪魔降服を祈る際に、陀羅尼を唱える、そのときの声という。
- (前掲の関山和夫氏が「仏教と民間芸能」で)発声法は白声・力見声・へばり声といわれる、いわゆる「しわがれ声」(嗄れ声)であり、これは日本の説教、謡曲、浄瑠璃、祭文、浪曲などに共通している。マイクのない時代には、この発声法が有効だったからである。
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