106、文語を共通語にしよう

平成ニ十一年
八月五日(水)「文語」
日本では古来、文章には漢文と文語が用いられてきた。明治維新の後は、西洋猿真似文化の影響で口語を用いることが多くなったが、口語の文章はよくない。まず駄文となる。
次に口語といっても東京弁だから、東京文化の全国への侵略となる。文章は文語を用いるべきだ。いや、そればかりではない。話し言葉においても文語を共通語とすべきだ。これにより、各地の文化は守られる。外国人が日本語を勉強するときも、文法のしっかりした文語のほうが学びやすい。
地方化と国際化のために、文語を共通語にしよう。

八月六日(木)「日本古来の伝統」
文語を使う理由は、日本では古来文語が用いられてきたという一言に尽きる。明治維新ののちに口語の優れた作品が出ることもあったが、文語という素養の上の一時的な花である。花はすぐしぼむ。長い江戸時代の間には停滞も起きた。西洋からの刺激で明治期に一時的に優れた口語作品が出ても、長続きはしない。

八月七日(金)「国語嫌いを育てる国語教科書」
中学校の国語の教科書は酷い。名作と呼ばれる作品が少ない。メディアがどうだとかいう論評や、小さい労働者というアメリカ作品の翻訳や、ああいう文章ばかりを読んでいたら日本語嫌いになってしまう。
俵万智の「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」という短歌や、種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」という俳句もどきまで載っている。万葉集から江戸期までの短歌や俳諧が分かった上で、こういう作品もあると紹介するのならわかる。こういう作品ばかりを陳列してどうする。「分け入っても分け入っても駄文の山」と嫌味の一つも言いたくなる。

八月九日(日)「東洋嫌いを育てる社会科教科書」
社会科の教科書はアジア嫌いを育てる。教科書検定は本文しか見ていないようだ。明治天皇のすごい目付きの写真が載っている。昔の写真はまばたきせず二十分間じっとしていなくてはならなかった。だからあのような目付きになったのだろう。あるいは写真撮影という初めての体験で緊張もしよう。昔は写真を撮ると命を吸い取られると信じていたそうだ。それを解説なしに載せれば生徒は祖国嫌いになってしまう。
朝鮮半島の百済、高句麗は古来「くだら」「こうくり」と読み日本では隣国に親しみを感じてきた。ところが教科書には漢字の下にはこの読み方、上には「ペクチェ」「コグリョ」と二通り書いてある。ペクチェ、コグリョと言われて分かる人はほとんどいない。わざわざ隣国への親しみを半減させるような書き方をしている。総じて教科書は欧米かぶれ、東洋嫌いを育てる。

八月十日(月)「野坂昭如」
国語の教科書には野坂昭如の作品まで載っている。野坂昭如と言えば多くの者がエロ作家を連想する。事実、わいせつ文書販売罪で罰金刑になった。さすがに教科書にこういうものは載せないが、世界でもわいせつ文書販売罪で有罪になった作家を教科書に載せるのは日本くらいだろう。小説の内容は先の戦争の体験であった。平和は尊い。戦争はなくすべきである。まったく同感である。しかしそのような内容は社会科の教科書に載せるべきであろう。
社会科の教科書に載せる際には、欧米は広大な植民地を持っていたことと、日本は欧米の猿真似をして戦争になったことをはっきりさせる必要がある。そうしないと単なる祖国嫌いと欧米かぶれになってしまう。

八月十ニ日(水)「口語は薩長政府とマツカーサ政府が広めた」
最後に文語で書いてみよう。すっきりするし拡張は高いし論理的である。
文章に文語を用ゐるは我國古來の風習なり。薩長の作りし歐米猿眞似政府のせゐで口語文章流入せり。薩長政府の行く末を見よ。大陸を侵掠しつひには滅びぬ。薩長政府に贊成するもの此れ軍國主義者なり。
飜つてマツカーサの作りし戰後政府は文語を廢止せり。マツカーサ政府を見よ。歐米列強による植民地支配を默認し歐米のせるは正しきと思ひたり。マツカーサ政府に贊意を示すもの此れ帝國主義者なり。
軍國主義と帝國主義に反對せんが爲にも文語を復活すべきに非ずや。

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