九百七十 1.自民党山東派会長山東昭子を批判、2.自民党東京都連を批判
平成二十九丁酉年
五月二日(火)
自民党の党紀委員会は、自民党を除名になった或る無節操な男の復党を決めた。この男は除名になったあともあちこちを渡り歩いた。そんな男について、これまでも東京都連から復党の申請があったものの党本部が拒否してきた。
今回、党紀委員長山東昭子は「国政選や地方選で自民党を積極的に支援してくださった実績、政治家としての実績がある」と語った。冗談ではない、この男にはあちこちを遍歴した無節操な実績しかない。

五月三日(水)
山東派はかつての三木派。国民共同党、改進党を経て日本民主党のときに保守合同で自由民主党になった。だから自民党内では左派と思はれがちだが、三木武夫はバルカン政治家、ずるしゃもと呼ばれた。
クリーンが旗印の三木派で汚一点と呼ばれた河本敏夫は、クーデターで派閥を乗っ取った。田中派を乗っ取った竹下と同じやり方だった。当時の新聞には、三木があれあれと驚く間に河本が会長になったと書いてあった。
その五年後に河本が社長を務める三光汽船が倒産した。戦後最大の負債を抱へての倒産だった。それなのに河本は沖縄開発庁長官を辞任しただけで、衆議院議員はその後11年間居座った。引退したときも、三光汽船に十七年間勤務しこのときは参議院議員だった三男を立候補させた。河本自身は高村派(河本派の後継)の名誉会長を八十九歳で亡くなるまで続けた。倒産で取引先や銀行に迷惑を掛けたにも関はらず、この一族は一体何をやってゐるのか。
総裁選には河本派から海部俊樹が立候補した。海部はそれまで現住所河本派本籍竹下派と云はれてゐたが、評判どおり竹下派の支持を受けて首相になった。しかし竹下派の傀儡で最後は竹下派に捨てられた。その後、自民党を離党し新進党の初代党首になったり、自由党、保守党を経て自民党に復帰するなど、三木武夫と同じでバルカンだった。

五月四日(木)
今回の騒ぎで一番悪いのは、自民党東京都連だ。過去にもあの無節操男を復党させようとして、党本部から却下された。
プロ野球の規則には、球場内で相手球団の選手と親しい態度を取ってはいけないと云ふ規定があるさうだ。これは当然のことで、観客の前で相手球団と親しい態度を取れば、真剣に試合をするのか疑惑を持たれてしまふ。
同じやうに党を裏切ってシロアリ化した後の民主党で閣僚となった人間は、復党させてはいけない。
ここは都知事の小池さんに勝利してもらふしかない。都議選の直前に豊洲移転中止を発表すれば都民ファーストの会は大勝利する。根性の腐った自民党東京都連は撲滅以外にない。(完)

(消費税反対、国の獨立、シロアリ退治その三百二)へ 次、(消費税反対、国の獨立、シロアリ退治その三百四)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ