九百五十七 伊吹敦さんの著作を読んで
平成二十九丁酉年
五月二日(火) 伊吹敦さんの著作「禅の歴史」その一
「禅の歴史」の第一篇中国を読み終へた。講演では伊吹敦さんの博識に感服したが、この書籍では別の感想を持った。達磨に始まり今の臨済宗や曹洞宗に至るまでそこには一貫したものが多いはずだ。ところが伊吹さんは中国の皇帝が入れ替はる歴史とともに、禅宗各派もその内容が変化したことを重ねて書くから、禅宗には一貫したものが何も無いことになってしまふ。
信仰心の無い人が仏教史を研究すると、かうなつてしまふのかと落胆した。もちろんその逆でも駄目だ。所属宗派に都合のよいことを書き連ねると、学問の価値が無くなる。仏教の研究は信仰心のある人が、しかし学問と云ふ公正中立な立場で、所属宗派に都合の悪いことでも将来に別の研究が出ることを期待して記述する。そのやうな姿勢が必要だ。

五月二日(火) 伊吹敦さんの著作「禅の歴史」その二
第二篇日本では、まづ達磨宗大日能忍の弟子たちが師匠の死後に道元門下になったことと、その一方で三宝寺が中世の末まで存在してゐたことが書いてあるが、両者の違ひが何だったかが重要だ。伊吹さんは信心ではなく古文書解析だからそこに興味が無いのか、と思ってしまふ。
次に、建長寺、円覚寺など臨済宗本山では中国の官寺を模して十方住持制を取った。曹洞宗では瑩山紹瑾が五位説を重視し看話禅を導入し密教や土俗信仰を取り入れた。今の曹洞宗は密教と土俗信仰は認めるが、五位説と看話禅には言及しないから、これは貴重な情報だ。しかし
道元の精神を否定することによって成し遂げられたものであることは忘れてはならない。
は不適切だと思ふ。中国の曹洞宗に五位説があるのだから、道元の話を用ゐるか、道元の師匠筋の話を用ゐるかの違ひだからだ。
室町の中期になると京都や鎌倉の名刹では
参禅がほとんど行なわれなくなった。そのため(中略)寺を受け継ぐことが嗣法であるとする、いわゆる伽藍法系の嗣法が一般化した。(中略)公案の解釈が密教や古今伝授などの切紙相承の影響を受けて口伝法門化し(以下略)
この文章に注目した理由は、かつてXX会の出現で檀信徒数が1500万人になり、XX会を破門したため30万人にまで減少したXX宗と同じだからだ。この宗派はX寺の住職が僧Xから続く血脈を持ち、次期住職へは相承の儀式で引き継ぎ、その際は切紙などを用ゐる。この形式になったのは室町時代の中期で、禅宗と同じだ。
第二篇の明治維新以降と第三篇禅の現代はページめくりに終ってほとんど読まなかった。

五月三日(水) 伊吹敦さんの翻訳「中国の宗教」「中国禅宗史」
「中国の宗教」はジョセフ・アドラーと云ふアメリカ人の著作で、伊吹さんほか1名の翻訳。これは儒教、道教、仏教、民間信仰について判り易く書かれた名著である。ジョセフ・アドラーは私とよく似た考へ方をする。それは
瞑想は最初期から仏教の一部であったはずである。それなのに、どうして禅宗はそれをことさら強調するのだろうか。その答えは、禅宗には、天台宗や華厳宗に見られる哲学への過度の関心に対する反動としての側面がある、という点に求めることができる。
天台宗や華厳宗は瞑想を無視することはなかったが(以下略)
私は大乗仏教についても、部派仏教が理論に走り過ぎたため、その反動として生まれたと考へてゐる。ただし日本にあっては大乗仏教が世襲制になってしまったため、元に戻すには、仏教の本家である上座部を日本に広めてその刺激で大乗仏教を再興させるしかない。

「中国禅宗史」は印順師と云ふ僧侶が著した。中国浙江省の出身で戦後は台湾に移動した。それを伊吹敦さんが翻訳した。六百ページを超える大著だが、どうも私の波長と合はない。中国の余りに細かい史実は私には判らないためだ。名を知らない登場人物が多すぎるためだ。そんななかで一つだけ波長の合ふ部分を見つけた。
中国の民族文化は、相い異なる二つの傾向を含んでいて、それが南北の文化の相違という形で現れた(括弧内略)。
これだけだと少ないので最後の章「諸宗の対立と南宗の統一」を紹介して終了としたい。
ダルマ禅、即ち南天竺一乗教は、南方の玄学的で典雅な気風に合わず、北方に流れ込んで、次第に発展した。しかし、唐という統一王朝の時代に、再び、南方にその中心を移し、南方の精神を吸収した。その後、分化と対立の中で、多くの宗派が成立したが、最終的には、曹渓禅へと統一されていった。
(完)

固定思想(百三十四)その1固定思想(百三十五)

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