八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その一)花ケ前盛明氏の著書

平成二十八年丙申
五月七日(土) 林泉寺
林泉寺で、上杉謙信が曹洞宗として出家したといふ資料を目にした。このとき上杉謙信について調べようと思つた。これまで上杉謙信の知識と云へば、短気だつたので謙信が兵を引くと国人たちはまた裏切つたといふ悪いものがあつた。あと仏教を信じたのになぜ戦を好んだのだらうといふ疑問もあつた。
林泉寺でもう一つ判つたことがある。直江兼続の兜の「愛」は愛染明王を意味した。謙信の旗に「毘」と書かれたのが毘沙門天を意味するのと同じだ。
上杉謙信は出家したのに短気だつたといふのだと、貪瞋痴の三毒のうちの瞋を越えられないのかといふ疑問もあつた。

五月八日(日) 六冊の書籍
さつそく図書館で六冊借りた。花ケ前盛明氏の著書がそのうちの四冊を占める。同氏は直江津の神社の宮司をされ、県の文化財保護連盟、市の文化財調査審議会委員をされてゐる。本を借りる場合は同じ著者のものを何冊も借りることは避けるのが普通だが、横浜市立図書館で検索すると十数冊しか出てこなかつた。
このうちの「上杉謙信のすべて」花ケ前盛明編が一番役立つた。曹洞宗林泉寺との関係は強いがそれ以外に真言宗との関係が強いこと、信濃や関東の国人たちがしばしば背くのは当時の傾向で他の大名の家中でも同じだつたこと、守護代長尾家を兄から相続したのは守護上杉定実が謙信の兄を説得したこと、川中島出兵は信玄から北信濃を守るためだつたこと、室町幕府と関東管領による秩序ある社会を望んだこと、朝廷とも交流のあつたこと、最初は領内の一向宗を弾圧したものの最初の上洛の時に使者が石山本願寺に太刀、馬、金を持参し加賀能登越中の通路安全を図り石山本願寺を訪問して同盟を結び以後は寺が建てられそれは信玄が本願寺と親しいことへの対抗でもあつたこと、山内上杉氏と越後上杉氏は遠い親戚といふより近い親戚なこと、謙信や震源の軍資金は金山で信長は流通で資金を得たことなどが判つた。

五月二十二日(日) 反単純唯物論の立場で、大原康男氏の本を読む
上杉謙信を特集しようと思ったのは、織田信長は西洋文明の流入で唯物論になった。豊臣秀吉や徳川家康は、織田信長の路線とは反対に仏教及び神霊を尊重したが、これは宗教を利用した面もある。国内を統治するのに宗教を借りた。上杉謙信は織田信長とは異なり、宗教を完全に信仰した。それを調べようといふ次第だ。
昭和の日に元國學院大學教授大原康男氏の講演を聴いた。講演の内容と私の考へにほとんど共通点が無かったが、これは神道と仏教といふ明治維新以降の神仏分離が為せる技であった。神道と仏教といふ二つの方面から悪魔の思想である単純唯物論を批判すべきだ。そのため大原康男氏の著書を図書館で六冊借りた。
上杉謙信について調べることができず、執筆が半月空いたのはそのためだった。以下841-2として独立
六月二十二日追記その後「失敗の本質」を二冊読んだため、更に一ヵ月空いてしまった。


メニューへ戻る 前へ (その二)へ