八百四十 先の戦争は日本史上何番目の大事件か

平成二十八年丙申
五月七日(土) 敗戦は日本史上何番目か
先の戦争の敗戦は、日本史上一番目の大事件だ。今までさう思つてきだ。しかしよく考へてみると二番目或いは三番目が正しいようだ。二番目だとすると、一番は応仁の乱であらう。あれ以降日本は戦国時代が百年間続き、期間の長さと犠牲者数の人口比からすれば先の戦争とは比べ物にならない。
三番目だとすると二番は承久の乱か。日蓮聖人が三災七難と呼んだ時代は地獄の時代だつた。だからそのきつかけとなつた承久の乱を二番目に入れてみた。鎌倉幕府の初期は朝廷との連立政権だつた。承久の乱ののち幕府独裁政権となつた。その政治形態が明治維新前まで続いたから影響は大きい。
三災七難のうち最大のものは元寇だ。創価学会公明党がかつて所属した大石寺で貫首(この宗派では法主と自称する)だつた故細井日達師が、昭和五十五年頃に、次のような説法をした、太平洋戦争は日本が仕掛けて負けたものだが、元寇は敵が攻めてきたから、元寇のほうが深刻だつた。
これは一理ある。まだ創価学会が大石寺の信徒団体だつたときの説法だから、公明党もこの線で賛成できるだらう。戸田城聖氏は東條政権の高圧的な手法は批判した。しかし日本が西洋に負けたといふ立場は取らなかつた。だから戦後は岸信介氏を支持し、それが公明党の安倍政権連立与党に繋がる。

五月八日(日) 承久の乱を二番目に入れた理由
承久の乱を二番目に入れたのは、日蓮聖人があの時代を三災七難と呼んだことに敬意を表してのことだ。承久の乱自体は大きくなかつたが、これ以降武力がすべてといふ時代に突入する。幕府の独裁が蒙古の使者を斬り、それが元寇につながつたとすると影響は大きい。元寇は討幕を生み、南北朝56年間の戦乱を生み、関東ではその後も上杉禅秀の乱をきつかけに戦乱が続くことになつた。
このように考へると、承久の乱から応仁の乱まで戦乱が続き武力一辺倒の時代とすることもできる。

五月十日(火) 鎌倉幕府成立時としない理由
武力一辺倒の時代の始まりを、鎌倉幕府成立時ではなく承久の乱としたのは、鎌倉幕府は朝廷との調和を考慮した。政治と軍事の分離を試みたといつてもよい。源頼朝は義経を殺した悪人といふ印象が日本人の心に残る。しかし理想的な政治形態を作つたのかも知れない。鎌倉幕府の悪いのは北条以降だ。或いは承久の乱以降だ。

五月十一日(木) 先の戦争が日本史上最悪の事件となる日
以上見て来たやうに、先の戦争は日本史上二番目に悪い事件とするのが適正のやうだ。その中には人類史上最悪の事件となつた二発の原爆使用が含まれる。(人類史上最悪の事件を含むのに日本史上では二番目の理由は、産業革命以降の人類滅亡の流れの一部とみなすことができる)
先の戦争が、今後日本史上最悪の事件に変はるかも知れない。それは先の戦争のあと、拝米が急速に進んだ。それでも米ソ冷戦時代はベトナム戦争が続いたこともあり、反米感情もあつた。米ソ冷戦が終結の後はGHQの洗脳がいよいよ表面に現れた。米英仏蘭は正しくて日本は間違つてゐたといふ奇妙な戦争観が現れた。このような状態を続ければ国が亡びる。反日パンフレット元主筆の英語公用語論はその典型だ。
先の戦争を日本史上最悪の事件としないためにも、拝米、拝西洋は中止しなくてはいけない。日米安保条約は存在して構はない。軍事と文化を分ける必要がある。(完)


メニューへ戻る 前へ 次へ