八百四十一の一 読書記(上杉謙信、その二)井上鋭夫氏「謙信と信玄」

平成二十八年丙申
六月十九日(日) 1.川中島
今回は三冊を借りた。書名ではなくキーに上杉謙信と入れたのが功を奏し、前回とは異なる本が多数見つかった。井上鋭夫氏「謙信と信玄」は昭和三十九年に出版されたものを平成二十四年に別の出版社から再度世に出された。年月の経過を感じさせない良書だ。謙信は長尾家の出身だが上杉を相続した。そのため上杉系図から始まる。足利尊氏が鎌倉で自立すると母系の伯父、上杉憲房は上野守護となって新田義貞の本拠地を経略、その子、憲顕は上野守護を継ぎ、やがて越後守護に補せられた。後に関東管領執事になった。山内上杉家の誕生だ。兄は犬懸上杉家、伯父の子は扇谷上杉家となった。
私が上杉系図を見たのは高校生のときだった。東京から浦和に引っ越し、父が埼玉県の歴史といふ書籍を買ってきた。それにこの系図と犬懸家の上杉禅秀が関東管領のときに関東公方が乱を起こし禅秀が活躍したが後に滅んだ。扇谷上杉の家宰太田道灌の大活躍と、主君の家で謀殺され、これ以降扇谷上杉は滅亡の坂を転げ落ちた。
井上鋭夫氏の本の系図には、三家の他に山内の分家で越後守護がある。扇谷と犬懸が滅んだ後は、関東管領に嫡男が無いと越後から養子に入るやうになった。謙信が守護代となったとき、守護の権威は衰へ、国人は半独立状態、一族の長尾家もそれぞれが同格だった。謙信は幾多の氾濫を鎮め、関東管領からの応援要請に答へて出兵した。それぞれが半独立状態だから謙信が引くと各地で再び寝返る者が出た。
上杉謙信といふと、武田信玄と信濃を巡って何回も合戦を行った印象が強い。しかし信濃は、関東、越中と並ぶ一方面に過ぎず、関東と比べると小衝突の印象さへ受ける。まづ
天文二十二(一五五三)年(中略)謙信の信濃出兵が行なわれた。これが第一次川中島合戦である。謙信は上洛をひかえていたために兵を徹したので、(中略)北信もまたおおむね武田の手に帰した。
その後、上洛した。そして参内し
越後国内外の敵を逆徒として、これを討伐する勅許を得たわけである。ついで彼は禁裏修理料を献じ、将軍義輝に謁見したが、この上洛で彼の得た最大の成果は本願寺との接触であった。
この当時の本願寺は大名と考へたほうがよく、この本も
本願寺に貢物を贈ったのは、本願寺が大名化し、幕府も朝廷も大名公家も親しく交際していたためであることは言うまでもない。
とある。翌年武田、今川、北条の同盟が成立した。武田が越後の豪族をそそのかし乱を起こした。これは謙信軍により降伏させたが、謙信は
弘治元(一五五五)年七月信濃に出陣、(中略)善光寺に陣を張った。
このときは信玄が決戦を避けたため、対峙は百五十日に及び、善光寺以北の謙信側諸士の安泰を条件に講和した。謙信はこののち引退を決意し高野山に行かうとする。井上氏によると
国内も信州も一段落ついたから(中略)安堵感と病気による自身の喪失および国内豪族の対立にいや気がさしたものであろう。
と推定する。家臣達は誓紙を差し出し、統制は強化された。こののち小衝突の第三回、激戦の永禄四年第四回、小衝突の第五回と続くが
永禄四年の合戦を含めて、いわゆる川中島の戦は謙信と信玄とが死力を尽くした正面衝突ではなかったことを注意せねばならない。
謙信が仕掛けて信玄が戦ひを避けることが続いた。おそらく謙信軍のほうが強かったのだらう。永禄四年の合戦は強い謙信軍が逃げて回る信玄軍を侮ったところ、予想したより強かった。そんなところではないだらうか。一方の信玄は外交力で強かった。

六月十九日(日)その二 2.関東出陣
永亨の乱で足利持氏が滅び上杉憲実が関東管領となったが、のち将軍義政のとき、越後守護上杉房定等は持氏の末子成氏を鎌倉に迎え、憲実の子憲忠を執事とした。しかるに成氏は父兄の仇として憲忠を殺し、上杉氏に追われて下総古河に走った。
この本には書かれてゐないが、埼玉県の歴史だと、足利持氏は将軍の兄のため妬んで反抗し上杉憲実らに討たれた。後に将軍が代替はりし成氏を関東公方にした。身の危険を感じた上杉憲実は隠居した。こんな内容だったと記憶してゐる。
そこで上杉氏は義政の弟政知を伊豆の堀越に迎え、(中略)山ノ内・扇ヶ谷の両上杉家は堀越公方の管領であったが、扇ヶ谷の太田道灌(持資)が主家に殺されてから、両上杉家もまた衝突し、関東は三派に分かれ戦乱あい続いて起こった。
その後、北条氏が現れ南関東と上野を奪った。そして平井城に迫り、関東管領上杉憲政は越後に逃げ延びた。謙信は部将二名に三国峠を越えて北条軍を攻撃させた。井上氏は
ともかくも憲政の平井城復帰ぐらいは実現したであろう。
と推定してゐる。
永禄(一五五八)元年北条氏康に圧迫された上杉憲政は、平井城を棄てて五月ふたたび越後に遁れ、謙信に上杉家の系譜・重宝及び関東管領職を譲ろうとした。謙信はこれを受託しなかったが、関東出陣(越山)の決意は固められたもののようである。
永禄二(一五五九)年謙信上洛のとき、義輝は関東管領に任じようとしたが、やはり辞退している。
翌年、今川義元が桶狭間で死亡する。北条は関東で攻撃を続けた。
謙信はここに関東進攻を決意し、八月二十九日春日山城を発し、初めて三国峠を越え沼田口から上野に出陣した。先鋒は十二月相模に達した。北条の同盟者武田信玄が、使を大坂本願寺顕如に遣わし、加賀・越中の本願寺門徒に謙信不在の越後を攻めさせようとしたのはこのときである。北条氏は一向宗を禁じていたが、援助すれば寺塔を建立するというのである。しかしこの約束は氏康に守られなかった。
私はかう云ふ約束を守らない人間が一番嫌いだ。だから後に大阪城攻めで和議を反故にした徳川家康は嫌ひだし、武田と諏訪の同盟を破った武田信玄も嫌ひだ。私が謙信に肩入れする理由はここにある。

六月二十日(月) 3.関東管領就任
古河公方足利義氏は(中略)北条氏康に身を寄せたので(中略)三月大挙小田原城を攻撃した。越軍は火を沿道に放って進み、十三日未明総攻撃を開始した。しかし城兵は必死に防戦し、寄せ手は大磯に退き(中略)一か月半の包囲ののち、信濃・北陸の動きもあり、諸将長陣の不利を説いたので、謙信は兵を収めて鎌倉に引き上げた。そしてここ鶴ケ岡八幡宮の社前で憲政から官僚職を譲られ、憲政の病気がなおるまでという条件で受諾した(蕪木文書)。閏三月十六日謙信は上杉氏を称し、景虎を政虎と改め、諸将は誓紙を謙信に入れた。謙信は藤氏を擁立している梁田政信に起請文を与え、藤氏に古河公方を相続させ、関東のことは不案内であるから腹蔵なく意見を聞くことを約している(集古文書)
謙信と信玄の争ひは、甲斐、相模、駿河、北陸を含む大がかりな戦争の一部だった。

六月二十二日(水) 4.関東鎮撫
謙信はさきに関白近衛前嗣を(中略)厩橋に迎えた。これが越後公方であるが、関東武将はやはり古河公方の擁立を望んでいた。(中略)こののち謙信は古河に藤氏・前嗣・憲政を置き(中略)関東を鎮撫した。
謙信は六月越後に帰り九月川中島の大激戦となり
北条氏康はこの機に乗じて勢力を回復し、武蔵松山城に攻め寄せ、信玄もまた上野・武蔵の上杉方の属城を攻撃した。
川中島は信濃だけではなく関東の鎮撫と関はってゐた。
そこで謙信は十一月また関東に出馬し、(中略)二月には館林城を落し、ついで佐野城を攻め、三月に前嗣・憲政をつれて越後に帰った。これで古河城での越後公方と古河公方との不和は解消したが、前嗣は(中略)謙信の引き留めるのも聞かずに帰洛してしまった。謙信もこれには腹を立てたという。一方古河公方も、謙信の撤退に応じて北条氏照に攻められ、藤氏は古河を捨ててふたたび里見氏に身を寄せることになり(以下略)
といふ有様だった。謙信がゐなくなると関東に反乱が起きたのではない。謙信と三国同盟(武田北条今川)の綱引きに、上野武蔵相模の国人たちが翻弄されたのだった。これは信濃も同じで、謙信と信玄の中間地帯にはどちらとも和睦する国人が多数ゐた。完全な中立ではなく謙信寄り、信玄寄りといふ色分けはできても、いざ軍勢がやってくるとそちらに従ふのだった。だから川中島の激戦ののち謙信側だった領地を信玄が新たに領主に任命したことを以って井上氏は信玄の勝ちとしてゐるが、これは違ふと思ふ。

六月二十五日(土) 5.謙信の信仰
上杉謙信の信仰は禅と真言系旧仏教で、これに善光寺如来や飯縄(いずな)・更科(さらしな)・小菅などの山嶽信仰が混入している。これは信玄も同様で、東国武将の信仰の一般的形態であった。
とある。謙信と信玄は同じやうに信仰したのになぜ戦を続けたのか。ここに怒りの心を鎮めることを軽視し、ご利益を重視した日本の仏教の欠点がある。私も怒りがいけないといふことに気付いたのは、ミャンマーの上座部仏教寺院の経典学習会に参加してゐるときだった。
謙信の禅は曹洞宗だけではなく
上洛した時、紫野大徳寺(中略)を訪れ、法号を宗心と命ぜられた(上杉家文書)。これより有髪の僧とし戒行を保ったが、川中島の対戦で厭世感を起こしたのか、(中略)二十七歳で遁世の志を発した。(中略)長尾政景等の勧めによりこのことは思い留まったが、こののち謙信は女色を断ち、肉食を退け、精進潔斎、全く出家の生活を送ったと言う。


六月二十五日(土)その二 6.「結び」を読んで
この書籍は二五六ページに亘って中立の立場で古文書を引用しながら書いてゐる。その客観性には敬意を払ひながら紹介してきたが、「結び」といふ最後の四ページ余だけは賛成できない。ここでは信玄と謙信について
織田信長が切りひらいて行ったような、天下統一への荊の道を歩む実力を、はたして両将は持ち合わせていたであろうか。彼等はいずれも経済的には後進性地域の大名であって、動員できる兵力も武器も少なく、中央から離れていたために、その装備もまた粗雑であった。鉄砲隊がようやく威力を発揮しだした戦国大詰めの戦闘に、謙信軍の装備は一向一揆にさえも劣り(以下略)
とあるが、果たしてさうだったか。
謙信は信長の軍が七尾落城を知らず、(中略)賀州湊川を超え数万騎で陣したのを聞いて、加賀に出陣した。そして七尾落城を聞いて撤退する織田軍を追って千余人を討ち取り、また洪水中の湊川(手取)に負い落し(中略)。これが謙信と信長との最初にして最後の会戦である。

これについて井上氏は「結び」で
謙信が信長軍を加賀に劇はしたことは、さきに見たところであるが、これはいわば前哨戦であり、主力部隊の遭遇戦の勝敗と同日には論ぜられるものでないことは勿論である。

井上氏は、前哨戦だから主力部隊の遭遇戦とは異なる理由を言及してゐない。信長軍の特長は一回目に負けても二回目に強くなることだ。浅井朝倉とも、本願寺とも、二回目で勝ってゐる。とかく桶狭間に目が行くがここを見逃してはいけない。そしてこれは云ひたくないのだが、信長は西洋の情報を得て二回目は勝てた。なぜ云ひたくないかと云へば、昭和10(1925)年以降の日本の軍部も、昭和50(1975)年以降の日本の経済界も、西洋の知識で勝てる時代ではなくなったことだ。信長は西洋の情報を得て勝ったといふと、昭和50年から四十年経過したと云ふのにまたシロアリ民進党のやうに西洋猿真似で消費税増税だとかを叫ぶ連中が出る。
話を戻すと、謙信と信玄の実力が伯仲してゐたのではなく、武田、今川、北条の三国連合が強大だったため、謙信は信玄と伯仲した戦ひをせざるを得なかったし、兵力を関東に、川中島に、越後にと目まぐるしく回さざるを得ないため、撤兵後の寝返りが続出した。
信長の優れたところは西洋の情報のほかに、相手が強大なときはこれでもかといふほど礼を尽くす。謙信に対しても贈り物を送ったり、双方ではなく片側で人質を送ったりする。謙信にはこれが欠けてゐた。
井上氏は信玄との比較で別の欠点を挙げる。
謙信は関東・北信・越中・能登と、勇戦力闘これを馬蹄の下に蹂躙しながら、ついに一人の武将をも心服させることはできなかった。

武将は心服したから従ふといふものではない。今年のNHKの大河ドラマ真田丸で信濃の国人たちがあっちに付く、こっちに付くを繰り返すが、それが許されたのは二大勢力の中間に位置したのと、織田信長みたいに、背いたら一族郎等皆殺しだと強行手段を取らなかったためだ。しかし
信玄は着実に小規模な征服を進め、深追いをすることもなく、一度手に入れた土地では決して謀反を起こさせなかった。

本来はこのやり方でなくてはいけない。謙信は天才過ぎて周囲が意見できないのが痛かった。井上氏はこの点について
清濁併せ呑む大度量に欠け、正義と潔白を標榜したが権威には弱く、(中略)その精鋭を率いての果敢な進撃は、彼の一生不犯と大酒と同様に性格の弱さの反映であったかも知れない。

これは根拠の無い悪口だ。謙信は権威に弱いのではなく戦乱を終らせるために権威に従ったといふべきだらう。信長みたいに将軍を擁立したといふ権威で布武するなら権威に弱かったといふより権威を利用したと云へるだらう。しかし謙信は出家を決意したりもした。偶然「読書記(4.失敗の本質 戦場のリーダーシップ)」に出てきた石原莞爾のやうな無欲さがある。石原の場合は性格の淡白さを板垣征四郎のやうに実行力を伴った粘着質と組むことで克服したが、謙信も淡白であって「一生不犯と大酒と同様に性格の弱さ」では絶対に無い。
鎌倉八幡宮の社前での盛儀に成田長康を殴打したり、本庄繁長を些細なことから殺そうとしたりしているのも、何か抑圧された焦燥感が伏在し、時として激発したような印象を受けるのである。

これも根拠の無い悪口だ。成田長康と本庄繁長の件をインターネットで調べると、井上氏ほどひどく書いてはゐない。何もなかったといふ説もあり私はこれが正しいと思ふが、あったとしてもそれほどの出来事ではなかったのではないか。
これまで謙信を根拠無く悪く書く本の多いなかで、井上氏の本は古文書も引用して中立だと今まで思ったが井上氏の本の最後の四ページこそ謙信を悪く書く人たちの種本であった。


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