八百十六 心の時代「さとりへの道~華厳経に学ぶ」(その六、最終回)
平成二十八年丙申
三月二十日(日)
本日は第六回で最終回だ。
千六百年前に成立した華厳経の中心となる思想が、縁起的な世界観。すべての物が相互に関係し合ふといふ考へが、文化、科学などで見直されてゐるとして、まづ作家Xを挙げられた。
インドラの網は華厳経からヒントを得たのでは。
二十代後半の作品と推測。X経信仰に目覚め、農学校に赴任、妹の死。一つの人生の節目に繋がつて構想された作品。
僧X教学を遡る天台教学ではX経が釈尊最後の教へ、華厳経は一番最初の教へ。華厳経に関心を持つことは不自然ではない。
「天人はまっすぐに翔けている。しかし少しも動いていない」は華厳経の会座が動いてゐく中で盧舎那仏が座を移す様子からヒントを得たのでは。
一切の諸仏は智慧もて一切の法界の因陀羅網(いんどらもう)の如くなるを分別す(仏不思議法品)あらゆる世界がインドラ網のように深く繋がり合ひ関はり合ふ
原稿の欄外に「普賢菩薩が説かれた宇宙の夜」といふ書き込み。華厳経に基づいて中国で完成された華厳宗の哲学思想を自分で読んだか、誰かの話を聞いて知つたのか、よくわからないが、知つてゐたことは間違ひない。
「まつ青な寂静印の湖の岸」の「寂静印」は「涅槃寂静」。安らぎの世界、静まつた平安な世界。
次に韓国の高銀(こうん)。
十代で朝鮮戦争を経験し、出家、還俗し、民主化運動で投獄。小説「華厳経」。人法界品の善財童子。異体相即。
次に哲学者の井筒俊彦を挙げ
『意識と本質』東洋の哲学的伝統では、そのような次元での「存在」こそ神あるいは神以前のもの、例えば荘子の斉物論(せいぶつろん)の根拠となる「混沌」、華厳の事事無礙・理事無礙の窮極的基盤としての「一真法界」、イスラームの存在一性(いつせい)論のよって立つ「絶対一者」等々である。
「事事無礙」は、物事と物事とが個別的に存在せず、関はり合ひ、交はり合ひ、融合しあふ。『意識と本質』では「無本意的に分節された事実の存在融合」といふ言葉を使ひ、本質といふ絶対的に動かないもの、変はらないものを設定することを突き抜けて、物事の関はり合ひをみる。それを「存在融合」。
『華厳経』の世界観が、科学の分野と重なる例で物理学者フリッチョフ・カプラ
細分化された科学研究に疑問を投げ掛け、総合的な観点から研究すべきだと主張。一九七五年に出版した「The Tao Of Physics(タオ自然学)」は、世界的ベストセラー。
大乗仏教の「空の思想」存在するものは、それ自体として本質を持たない。物理学では有限の質量、もう一方で量子論は物質自体が場。「空」と関係性。
最近の新しい物理学ではローレンス・クラウスの『A Universe from Nothing』。「A Universe」が重要で宇宙は一つではないといふ立場。「無から生まれた」は、XX教、元はユダヤ教の宇宙は創造されたといふ考へ方への真つ向から反論。仏教で言へば「如実」ありのままにあるのがこの世界。彼は宇宙は終末があるだらうとも言つてゐる。その宇宙自身も、たくさん宇宙があるんだといふ考へ方。
たまたま、「ニュートン」誌四月号に無数の宇宙の話があり、これに触発されて唯物論を「物理唯物論」「社会破壊唯物論」「弁証法唯物論」の三つに分けて、「社会破壊唯物論」を批判しようと考へてゐるところに、似た話が放送されよかつた。社会からの要請と云へる。
三月二十一日(月)
たくさんの宇宙があることについて華厳経では
蓮華蔵世界だけではなく、その十方に世界、宇宙がある、と説かれる。無から生まれて最後があるといふ考へ方は華厳ではなく遙か前の仏教の宇宙観。四劫説は成住壊空。四劫自体が生きとし生けるものの業の力、行為が持つエネルギーによつて展開する。華厳経の世界観では、願ひの力によって仏の力が作られる。仏の世界は永遠に続くが、その支へる力、生み出す力として願。四劫説の業に変はつて、願が大乗の浄土観。
仏教を理論として研究する人、特に西洋の研究者は、初期仏教の業を消滅させて解脱するところを根本思想として注目する。しかしこれも止観(瞑想、坐禅)の一つの方法と考へることができる。世の中の雰囲気に応じて、解脱を目的としたり、浄土を目的としたり、来世の幸福を目的として止観を行ふ。だから業によつて宇宙が作られるといふのも、願によつて宇宙が作られるといふのも、実は同一となる。
物理学が質量、場などに進むことにより、仏教との共通を主張する人がゐるが、私はこれに賛成ではない。木村氏も同じで
目指すところが違ふ。結果として世界がどうなるかを物理学は捉へる。宗教、特に仏教の『華厳経』は、日常の行ひの中で、何を目指して生きるか。その一貫として宇宙観がある。
最後に四十年以上の研究での受け止め方を訊かれ
正しい願ひを持たなければいけない。それから初めて発心したときに悟りを完成すると書かれてゐるが、一歩一歩歩んでいかなければいけない。
縁成(えんじよう)は縁によつて物事が完成していく。展開させて共成(きようせい)と読んで構はないと思ふ。共に成す。共に成るといふ縁起的な自覚。華厳経的に言へば菩薩道の行為。
仏を華で美しく飾る。雑華厳飾、いろんな華で厳かに飾る。いろんな華とは一人ひとりの違つた個性、違つた活動。仏の世界を飾るような行ひを心掛ける。
以上の有意義なお話があつた。(完)
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