七百八十三(乙) 「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が優れ、真宗大谷派「不戦決議」が劣る理由
平成二十七乙未
十二月二十日(日)
経年とともに日本は劣化
昨日は基督教会のクリスマス礼拝に参列したので、日本基督教団を賞賛しようと思ふ。「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」である。これと真宗大谷派の「不戦決議」を比較すると、前者が格段に優れる。これは書かれた年代の差に依るところが大きい。日本は米ソ冷戦終結の後に思想が大きく劣化した。同じころに発生したプラザ合意による円高でも大きく劣化した。つまり二重に劣化した。それが真宗大谷派の「不戦決議」に現れた。
まづは日本基督教団が1967(昭和四十二)年に発表した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を見よう。
わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。(中略)まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。
日本が戦争に突入する前年に、政府は宗教団体の各派に組織統合を行政指導した。そして三十数派に分かれてゐた福音主義教会が統一した。
次に真宗大谷派が平成七(1995)年に出した「不戦決議」を見よう。
私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。
真宗は戦前の日本を精神的には自分たちとは無関係だとしたいらしい。物質的には同体だが精神的には無関係としたいから「大日本帝国の名の下に」といふ奇妙な云ひ回しを使ふ。大日本帝国は戦前の正式な国の名だ。決して戦争のときに安直に大日本帝国を名乗つたのではない。私自身、大日本帝国といふ命名は好きではない。それは大英帝国の猿真似だからだ。しかし好き嫌ひを離れて正式名である以上、「大日本帝国の名の下に」と奇妙な云ひ方をしてはいけない。日本基督教団の「わが国の政府は」と雲泥の差がある。この場合、「わが国」は自分たちを含み、「政府」は開戦した政府機構と、上手に分けたと見ることもできる。行政機構とは無関係を主張してもよい。「わが国」には自分たちも含まれる。
「世界の人々、とりわけアジア諸国の人たち」に該当する部分を日本基督教団で見よう。
まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
大谷派の「世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに」は日本基督教団の「世界の、ことにアジアの諸国」のパクリではと云ひたくなるが、良いところは真似したほうがよい。それより問題なのは次の点にある。
日本基督教団は政府への「見張り」の使命をないがしろにした罪を主、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に許しをこひ、実に道徳的で高尚である。
一方の真宗大谷派は世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらした、と懺悔する。まづ西洋列強が世界を植民地にし、遅れて登場した日本が醜い植民地争奪戦を行つたためアジアの人たちを巻き込んだことを謝罪するのはよい。しかし「世界の人々、とりわけアジア諸国の人たち」には西洋列強も含まれる。西洋列強と日本が互いに謝罪するならよい。日本だけが西洋列強に謝罪しては駄目だ。それでは西洋の帝国主義を容認したことになる。
日本基督教団の「わたくしどもの祖国が罪を犯したとき、(以下略)」を読むとき、先ほどの「わが国」と「政府」を分けたと書いたのは私の勘違ひであつたことがよく判る。決して自分たちだけ偽善になるのではなく、見張りの使命をないがしろにしたことを謝罪する。実に責任感にあふれた尊い発言である。
十二月二十一日(月)
大谷派は、祖国を「この国」と呼ぶ奇妙な連中より悪い
米ソ冷戦の終結とプラザ合意以降、日本のことを「この国」と呼ぶ奇妙な連中が現れた。シロアリ化した以降の民主党に多い。なぜ「祖国」「わが国」といへないのか。それでゐてシロアリ民主党には前原や枝野といふ拝米反アジアのタカ派まで含むのだから驚く。
それでは日本基督教団を見よう。
終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。
きちんと「祖国」といふ言葉を使ひ、文章も美しい。一方の大谷派は
私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。
この国どころか、それさへも出てこない。「民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて」について「豊かで」を除いて全面賛成したい。「豊かで」は化石燃料による地球温暖化と引き換へだから賛成できない。つまり概ね賛成だが、この文章は重要なことが抜けた。「民族・言語・文化・宗教の相違を越えて」といふが、祖国に言及しないからそれは西洋化することだ。ベルギーにテロリストがゐるからと云つて西欧の軍隊がブリュッセルを爆撃するか。イラクには生物兵器も化学兵器もなかつたのに、アメリカはあると云つて戦争を始めた。祖国を除いて世界を云ふことは、アメリカ一極支配に巻き込まれる。
十二月二十二日(火)
戦争の時代を生きた人々
「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の優れる理由は、戦争の時代を生きた人々により創られた。この名文は将来に亘つて日本基督教団の貴重な財産とならう。(完)
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