七百七十 2.その他の著者の「天台小止観」(その二)、3.その他の著書

十一月二十一日(土)その二 その他の著者による天台小止観、高田明和氏
高田明和氏の「心と体がととのう『天台小止観』」は二番目に読んだ。最後まで読んで、「おわりに」に突然、相沢三郎が出て来る。永田鉄山を陸軍省軍務局長室で斬殺し死刑になつた。真崎甚三郎や永田鉄山まで登場する。この本は危ないのではないかといふことで一旦は紹介しないことにした。因みに私のホームページでもこれらの人たちは登場するが、それは石原莞爾特集だとか言及せざるを得ない場合であり、天台小止観の本に出て来るのはまずいのではないか。
しかし読み返して評価が一変することもあるので、もう一度読み返した。二回目は、最初内容がよいことに感動した。高田氏は医師でアメリカ留学後、ニューヨーク州立大学助教授、浜松医科大学教授。栄養学が専門である。序章ではロボトミー手術、末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識の説明を脳の図を参照しながら解説する。読み進むうちに、精神相談の事例が多量に登場し、最初のうちはきちんと読んだがだんだん煩はしくなつた。精神相談の部分だけ読み飛ばすようになつた。

十一月二十二日(日) その他の著者による天台小止観、続、高田明和氏
相沢三郎の話は次の前段がある。
悟りを得るためには学問などはいらない、いや邪魔になるとさえ言います。浅原才市などは無学でした。また、仏弟子の周利槃特(しゅりはんどく)は知恵遅れのような人でしたが、釈尊の教えを忠実に守り、悟りを開きました。一方、阿難は記憶力に優れ、釈尊の言葉をすべて覚えていたのですが、そのために長く悟りを開くことができなかったとも言われています。
しかし、このように禅定のみをよしとする考え方を突き詰めていくと、問題が生じてきます。事実、第二次大戦中に戦争に加担した老師もおられました。
また、第二次大戦の前にこのような事件が起こりました。

として相沢三郎の事件に入る。その前に、「第二次大戦中に戦争に加担した老師もおられました」には反対である。戦前は欧州以外のほとんどは植民地だつた(アメリカは国自体が植民地である)。しかも隙があれば他国から侵略される。そのような時代に、加担も何もない。ソ連とナチスドイツが同盟を結んだ時期もあつた。日本はドイツ、ソ連と組んで米英に対抗しようとしたが、ナチスが突然、ソ連に攻め込んで水泡に帰した。国内で戦争に加担しないのは共産党関係者だけだつたが、もしドイツがソ連に攻め込まなければ別の結果になつただらう。或いは政府が共産党を弾圧しなければ別の結果になつただらう。つまり開戦前は反対する人がゐたとしても、開戦後はごく一部の例外を除いて全国民が参加したのであつて、特定の老師を批判してはいけない。
仙台の部隊に相沢三郎という中佐がいました。彼は剣道の達人でした。その時代に禅宗で有名な松島の瑞厳寺に行き、「仏の教えは取りも直さず国家のためである」という法話を聞き、深く感動して仙台市内の曹洞宗の無外和尚に参禅し、厳しい修行を三年続け、悟りを得たともいわれています。(中略)昭和一〇年に真崎が陸軍教育総監を罷免させられると、これは統制派の永田の策略だという怪文書が飛び交い、相沢は永田こそが日本をだめにしていると確信して、(中略)永田を斬り殺しました。

この事件について高田氏は
彼の犯罪からわかることは、心を磨き、清らかにするだけでは、片手落ちだという教訓です。(中略)私がこの本でもっとも伝えたいのは、止観をバランスよく実践して、禅定と智慧をともに養い、慧眼と法眼をともに備えていくことの大切さです。

この話を聴いて思ひ出すのは中曽根康弘である。中曽根は東京谷中の寺で参禅した。それでゐて国鉄民営分割を強行した。あの事件は実に醜悪だつた。多数の自殺者や失業者を出した上に、あれ以降の日本の労働運動は今日に至るまで労働運動ではなくなつた。二番目に「大型間接税を導入するのではないかと言はれていますが、中曽根はやりません」と云つて選挙に大勝した。それなのに内角ぎりぎりだとか詭弁を使ひながら売上税を導入しようとして、最後は退陣した。そして名称を消費税に変へて次の内閣で導入された。中曽根ほどの嘘つきは珍しい。当時から風見鶏と呼ばれ軽蔑された。

十一月二十三日(日) その他の著書、土屋慈慕氏監修「我が家の仏教・仏事としきたり 天台宗」
土屋慈慕氏監修「我が家の仏教・仏事としきたり 天台宗」にも四種三昧が出て来る。
常坐三昧は、九十日間を一期として、坐禅止観によって心身を安定させ、一切の因果の道理を観ずる法。
常行三昧は、九十日間を一期として、常に行道(阿弥陀仏のまわりを歩き続けること)して心に阿弥陀仏を念じ、口に名号をとなえて安心を得る法。
半行半坐三昧は、法華三昧ともいわれ、一期を二十一日間とし、自らの衆罪を懺悔し、また坐禅止観をして、仏心を成じる法。
非行非坐三昧は、期日や方法を定めず、日常生活を営みながら、念仏、観法をして、悟りの境地に入る法。


十一月二十六日(木) その他の著書、続、土屋慈慕氏監修「我が家の仏教・仏事としきたり 天台宗」
「朝題目に夕念仏」の節には、次の記述がある。
すべての天台宗の僧侶が、それらの修行すべてを満行しているわけではないということである。/筆者も天台僧侶の末端であるが、加行(けぎょう)という六十日間の密教の修行をはじめとして、地方寺院の住職が修めるべきいくつかの行を比叡山で終えたあとは、自坊での修行を誓って下山し、その籍に就かせていただいている。/天台宗の勤行は、古来「朝題目に夕念仏」といわれる。(中略)これは伝教大師最澄が、比叡山に導入した四種三昧の中の法華三昧と常行三昧を、慈覚大師円仁が入唐して改訂し、法華懺法(ほっけせんぽう)と例時作法の勤行式となって発達したためであるといわれる。(中略)この二つの勤行は、今でも天台宗のほとんどすべての寺院でおとなえされており、檀信徒の追善法要にも、どちらかの勤行の全段、あるいはその一部をおこなうことが通例となっている。/しかしながら、この法華懺法と例時作法の二つは、現在でも慈覚大師が唐から伝えたままの古代漢音によって読まれ、儀礼音用が付いている(以下略)

次の節には
法華懺法と例時作法の二つは顕教の法要であるが、密教の法要としては、光明供が多く修せられる。光明供とは、光明真言を誦することを中心として密教の修法をおこなう法要で、葬儀や施餓鬼法要などに修されることが多い。

十二月四日(金) 幻滅した書籍
前回の書き込みから八日間が空いた。その理由は、関口真大氏の「天台止観の研究」を紹介するはずだつた。その一で「天台小止観」の
インド、シナ、日本を通じて仏教史上において初めてこのように集大成させたものであり、且つそれ以後においてもこれに勝って懇切な坐禅の指導書はついに世に現れなかった

の表現に疑問を投げかけたが、内容は堅実だつた。更に昭和四十四(1969)年に「天台止観の研究」のような大著を書かれたのだから、大学者なのだらうと想像した。ところが「禅とはなにか」といふ昭和五十九(1984)年の本は俗的過ぎる。例へば
東京の天台宗の宗立の中学校で寄宿舎生活をしていたころは、朝の食事と、夕食とに(中略)般若心経を読むところがあります。「魔訶般若波羅蜜多心経」をおおぜいの声にまぎれて「魔訶般若腹減った心経」とどなったりしながら、おおいに食ったものでした。

中学生のすることだからこの程度は大目に見るべきだ。しかし関口氏は七十七歳のときにこれを書いた。若かつたとは云へ勿体ないことです、と一言加へれば済む。それなのに関口氏は自慢話として書いた。別の章でも免状だのオブジェだの美人画だのと俗的な内容が多過ぎる。(完)


仏教(八十四)その一仏教(八十五)

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