七百五十八 三人の退職

平成二十七乙未
十月十八日(日)
ここ半月で会社の同僚三人が次々に退職した。一人は私が二十二年前に入社したとき最初に所属した組織の人で、二人目は私が入社して五年目くらいに私と同じ部に入り同年齢で定年退職である。三人目はかなり後になるが、私が人事採用のとき採用した営業職であり、営業職に適任で長年活躍してきたが、二年ほど前に精神が不調になり、長期療養の後に事務職として一年近く頑張つたが退職した。事務職は向かないのかも知れない。

十月二十日(火) 二十二年前のコンピュータ業界
私が今の会社に入つたとき、ソフトウェア受託開発部門がNI(ネットワークインテグレーション)事業部、ソフトウェア製品販売部門がSP(ソフトウェアプロダクト)事業部と称してゐた。ソフトウェア業界が大不況のときで、多くのソフトウェア会社が倒産した。ここの会社もかつては四百人近い従業員がゐたのに二百人を割つた。このうち前者が百八十人、後者は十人といふいびつな構造だつたが、後者にパソコン営業部を作り営業二名、技術五名でスタートした。このときパソコン営業部以外は本社の事務部門を含めてすべてVAXといふ中型機の端末を使つて仕事をした。二十二年前はこれがコンピュータ業界の姿でもあつたし、中堅以上の会社の事務所の姿でもあつた。

十月二十一日(水) PC事業部
せつかくSP事業部で始めたのに、二か月ほどするとPC(パソコン)事業部として独立した。新規事業は赤字に決まつてゐる。だから事業部に組み込めば事業部の利益が下がる(もちろん新規事業は赤字だからといつて放置してよい訳ではない。最近は新規事業ではなくても四半期ごとに利益を計算するが、新規事業は四半期ごとと云はず一ケ月ごとに見直しが必要である。そのことを主張したが周囲から、社長は議論することが嫌ひだといふことで、見直しのないまま一年が経過した)。新規事業は赤字に決まつてゐるのにその分を考慮しないから、ただでさへいびつな事業部体制が更にいびつになり、パソコン事業部が誕生した。会社のほとんどを占めるNI事業部、小さなSP事業部、更に小さなPC事業部である。結局、一年後に組織は解体された

十月二十二日(木) SP事業部
SP事業部は、SP技術部とSP営業部で構成されてゐた。事業部解体の翌年私はSP技術部に戻つた。といふことで退職した一人と再び同じ部になつた。私は前者に所属し部員は七名程度だつた。パソコンは一台しかなかつたが、交代で使つて支障はなかつた。当時のWindowsはDOS上で動く上に、デスクトップ画面をマニアの間で出回る別のものに変へることができた。その話は雑誌で読んで知つてゐたから、この一台のPCの画面が変でも驚かなかつた。しかし後に、会社の取扱製品でうまく動かないものが出て来た。あちこち試しても原因が判らない。まさかとは思つたが、画面を純正に戻すときちんと動いた。会社のPCでマニアみたいなことをしてはいけない。

十月二十三日(金) SP事業の終焉
SP販売はハードウェア販売とともに会社の売り上げの15%づつを占めた。異変が起きたのは数年後である。まづハードウェア専売営業の元取締役が自宅の風呂場で急死するといふ悲劇があつた。ハードウェアは価格が高いから、営業員の売上高リストでは常に一位だつた。ハードウェアの価格低下とともにソフトウェアの価格低下も始まつた。この当時はCPUの大きさに応じてソフトウェアの価格に差があつた。それでも輸入ソフトがほとんどなので、粗利率が高く社内では注目された。
海外とのやり取りはSP事業部長が一人で担つた。私が加はつたから活用すればよいのに、自分の地位が危うくなると思つたのか、最初のPC事業部の分割のときから私を追い出さうとしてきた。そしてSP事業部廃止ののちは週に二回コンサルタントに行くだけだと嘘をつき実際は毎日の派遣だつたため、大変なトラブルになつた。そしてSP営業部の技術担当となり、技術者をもつと増やさうといふことで中途入社したのが、今回定年で退職した人だつた。
その後はずつと別の組織だつたが、退職のときわざわざ挨拶に来られたので、昔のことを思ひ出した。獣医学科を志望だつたが不合格だつたので確か美術系に進んだと話してゐた。

十月二十四日(土) 異常事態が続く
私が入社する前は大宮、京都などにも事業所があつた。私が入社したときは既に閉鎖された後だつた。私が勤務する横浜事業所も、三階分あるうちの三階はがら空きだつた。ソフトウェア業界はそれまで増収増益の一方だつたのに、初めて経験する不況だつた。だから異常事態が次々に起きた。二年ほどして社長を除く全取締役が任期満了で部長に降格といふ事態も起きた。社長以外は社外取締役が二名任命された。社長にすれば倒産の危機で自宅も担保に入つたのに取締役連中は資金提供もしないといふことだし、取締役にすれば社長が株の過半数を握つて発言権がないのに資金の提供を求められたといふことだらう。
取締役でさへこの有り様だから、一般の従業員への退職勧奨はひどかつた。この当時よく使はれた言葉に「本人と会社の双方にとつてハッピー」がある。別の会社に移つたほうが本人も活躍の場がありますよといふ意味だ。しかしこの言葉には重大な誤りがある。会社は従業員を退職させてもそのことは会社の経歴に残らない。従業員は退職すれば履歴書の転職回数が1回増える。日本が自由に転職できる制度なら転職に賛成である。自由には転職できないのに退職勧奨することに反対である。
こののち会社の業績はよくなつたが、退職勧奨を行ふ慣習はずつと続いた。一旦悪い制度が入るとこれを改善するのは難しい。会社にしてみれば成績の悪い社員をやめさせれば業績が上がると期待するのだが、本部長や事業所長まで次々に退職するから従業員は会社への忠誠心を持たなくなる。その状態が長く続いたが、昨年、営業職から事務職に移動する人が出たことで、我が社もやつと異常事態を乗り越えたのかと感慨深い。せつかく移動したのに1年で退職したのは残念だつたが。

十月二十五日(日) 東北大地震
SP事業部長は、取締役解任、事業部廃止を経て、外資系にスカウトされて転職した。ところがその会社でリストラがあり再び契約社員として戻つてきた。そんなとき東北大地震が起きた。家に帰れないから皆でテレビを見た。福島原発が大変なことになつた。核分裂は停止させたから熱は発生しないはずだ。なぜ冷却が必要なのか自分の席で30分ほど考へて、放射性同位体の崩壊が原因ではないかと思ひついた。テレビの部屋に戻りそのことをいふと、元取締役事業部長が、いや核分裂はすぐには止まらないからだ、といふ。この人は東北大の原子核物理の修士を出て、小出裕章氏の同級か1年先輩か後輩である(小出助教を賞賛する理由へ)。 あの日の、津波が来て原発問題が起きる前に、会社の裏のほうにある公衆電話から実家に無事か確認の電話を掛けた。公衆電話は混雑時に優先順位が高い。これはよいことだ。緊急のときは携帯や固定電話は使はずに公衆電話に並ぶべきだ。その思ひ出の詰まつた公衆電話が今回、退職者に交じり廃止になつた。二人が退職したのが9月30日、公衆電話が廃止になつたのが10月10日、一人が退職したのが同月15日である。会社近くの公衆電話はこれで3か所が廃止された。あとは地下鉄の駅近くに行くしかない。(完)


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