七百五十五(丙) 芝増上寺と板橋ミャンマー寺院参拝
平成二十七乙未
十月十二日(月)
増上寺の日曜大殿説法
最近、増上寺や築地本願寺に参拝することが多い。一つは仏教の幅を浄土教や真言系にまで広げたことだが、もう一つは季節限定都営地下鉄一日乗車券を使つて何箇所か回るためである。今回は先日「禅をきく会」で増上寺の大殿日曜説法の常連の方にお会ひしたので、あと一回は参加しようと思ひ立つた。今回は「みなと区民まつり」を増上寺境内で開催中のため、場所が慈雲閣一階に変更された。最初は慈雲閣二階に変更された。ここは仏堂である。ところが直前になつて一階に変更され、ここは机と椅子だけだから阿弥陀仏の絵本尊を安置し、ここで説法とその後の茶話会も行はれた。
今回の布教師は話が上手である。声の調子が落語家に似てゐるので、大学時代は落語研究会だつたのではと思つた。しかしこの時点では別の感想も持つた。僧侶は上手に話し過ぎてはいけない。聴く者に口先だけと思はれてしまふ。前日に80歳の僧侶の話を聴いたが、途中で何を話したか忘れたり、余分な話だと断つてかなり脇道に逸れた。しかしこの80歳の僧侶の話のほうがよいとこの時点では感じた。この日の法話は次の内容だつた。
前に掲げられてゐるのは山越えの阿弥陀。足が書かれてゐないが、立つ阿弥陀はこれから行く、座るアミダはこれから法を説く。
善導大師 観無量経の解説書
欲界 本能。色界 本能から離れたが形だけ残る。無色界 形すらない、欲がない、精神のみ。
8、4は無限大を表す。一日に考へることは八億四千、釈尊の教へは八万四千あると云はれるが、どちらも8と4が入り無限大を表す。
煩悩具足 具足はそれでできてゐるといふ意味。人間は煩悩で出来てゐるから煩悩を除くと何も残らない。善導大師はさう云つてゐる。
煩悩は貪瞋痴に分けられる。本日はこのうちの貪でむさぼり。五欲に分けられる。食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲。
高野山に三論宗があつた。その高僧が親鸞聖人に尋ねたところ、煩悩を除くことはできないと答へた。
五欲の説明では、サラリーマンの場合を挙げ、朝起きたら眠いなあといふことで、睡眠欲と書かれた紙を上げ、お腹が空いたといふことで食欲と書かれた紙を上げ、会社で部長に気に入られようとして名誉欲の紙を上げ、ボーナスを多く貰はふと財欲の紙を上げ、と初心者に判り易い工夫もされた。
十月十二日(月)その二
茶話会
引き続き茶話会に移つた。「禅をきく会」でお会ひした常連の方がまづ、話によどみがなかつたがこの話は何回も行つたか練習をされたのですか、と質問し、布教師は今回が初めてだといふ。これは正論である。社会人がお客様やその他の関係者と話をする。決して場面を想定し何回も練習した訳ではない。お客様がどんな話を出すか判らないから場面の想定なんかできない。それでもきちんと話ができる。同じで説法も予め話す内容は集約しなくてはいけないが、話し方の練習は必要がない。
次に常連の方が続けて、エピソードは二つまでと決まつてゐますが、今回は檀家でこんなことがあつただとかのエピソードが一つもなかつたですね、と褒めた。エピソードを入れると話の中身が極めて少なくなる。エピソード自体が面白い場合を除いて、聴く者にとり退屈になる。今回このページを書いてみて、布教師の話された量が適切だつたことに感心した。
茶話会では毎回のように三身の質問が出る。阿弥陀仏は報身と捉へてよいかといふような内容である。あと浄土宗と真宗との違ひも話題になる。今回は、浄土宗は極楽に行つてからも努力、阿弥陀仏にこちらから近づかないと行けない。真宗は、我々と阿弥陀仏は別なので救つて頂くといふ話があつた。
十月十二日(月)その三
久しぶりのミャンマ−寺院参拝
久しぶりのミャンマー寺院参拝である。今回は初めて板橋本町駅から歩いた。環状7号の排気ガスを浴びながら歩くのかと最初は思つたが、地図で調べると裏通りで行ける。板橋愛染通りといふ商店街を歩くと双葉さくら通り商店街に替はる。石神井川を小橋で渡ると「なかいた」といふ金属製案内の商店街となる。つまり板橋本町から商店街を通つてミャンマー寺院まで行ける。
難点は都営地下鉄1日乗車券は季節限定で、年中売り出す訳ではないことと、昼食を食べるのに一旦、寺院を通り越して500m先のスーパー「サミット」まで行き、店内に食事コーナーがあるのでここで食べた後に寺まで戻ることだ。かつては千川駅前の「ライフ」で買つたり途中のコンビニで買つて公園で食べた。コンビニの隣に「サミット」が出来たらコンビニがずいぶん小さく見える。しかし閉店しないで営業を続けられるところはさすがセブンイレブンである。
十月十三日(火)
瞑想の時間
午後一時からの瞑想の時間が、最近は雑談の時間になつてしまつた。しかし有意義な話が出て来る。まもなくミャンマーに行く人がビザが取れたことを喜んでゐた。長さ2cmくらいの銀色に光るものが印刷され、下のほうは世界共通の読み取りコードが印刷されてゐる。瞑想ビザは三か月で一回延長し六ヶ月滞在の予定ださうだ。瞑想センターは上座部仏教寺院だから、男は比丘として、女は準比丘尼として一時出家する。寺院の維持や食料は近隣の善意に支へられるから往復の交通費以外は無料である。だからといつてそのままでは自分の徳を消費してしまふ。永久に出家するなら別だが、一時出家のときは出家する前か後か、お金がないなら帰国して余裕が出来たときに喜捨すべきだ。さういふ話が出た。これはよい話である。
十一月二十八日、二十九日に増上寺で開かれるミャンマー祭り(実行委員会名誉会長安倍昭恵氏)に今年も出展しないことになつた。高額の出店費が障碍になつた。まもなくミャンマーに行かれる方が少しですが瞑想しませうと発案し、十分間だが皆で瞑想した。
十月十四日(水)
初転法輪経
中道とは八聖道のことださうだ。中道とは堕落と肉体を苦しめる修行の中間のことだと考へがちだが、それだと曖昧である。八聖道のことだとなるとなるほどと納得する。肉体を苦しめる修行とは例へば寒冷なのに裸でゐたり、暑いのに周りを火で囲む修行である。八聖道の単語を聞いただけでミャンマー人は理解できるが、日本人には難しいといふことで、まづ戒定慧のうちの戒に関係する正語、正業、正命の説明があつた。
正語とは嘘を云はない、仲悪くなることをを云はない、乱暴な言葉を使はない、話す人と聞く人にとつて意味のない事を云はない。正業とは人を殺さない、盗まない、不適切な性行為をしない。正命は以上の二つの行為を職業にしてはいけない。
質問の時間に、正業で人を殺さないと云ふ説明があつたが、動物を殺さないがよいのでは、とお聞きすると動物を殺しても駄目といふ回答があつた。真言宗の僧が蚊を殺しても駄目なのか聞くと、駄目といふ回答があり、ミャンマーは蚊が多いから修行僧は蚊が来ないよう気を付けるさうだ。別の人が、娯楽は執着しなければいいのでは、と質問し、回答は執着しなくても一回楽しむと欲が出るから駄目。食、衣、寺、薬があればよいのでそれ以外は駄目、といふ回答だつた。
十月十六日(金)
お茶の時間
学習会終了後に、一階でお茶を飲みながら歓談する。NHKの大河ドラマを観るときは遅くなるので参加しないことが多いが、今年は既に観なくなつて久しい。一階は誕生日、その他の法要で親戚知人などが集まつて集会を行ひ食事を自炊する。その余つたご飯が出ることがある。今回も出たので美味しく頂いた。といふより一品は辛くて、通訳さんから顔が真つ赤だと云はれた。別のおかずはあまり口に合はないので、この辛い野菜を集中的に食べた。汁は魚の味が濃厚で、もし日本でこれを作つたら非難集中である。とはいへどれもありがたく頂いた。口に合はないことはない。その土地の農産物と長年の歴史が特有の料理を作る。ミャンマーの家庭料理を食べる機会は日本ではさうはない。日本でいへば、沢庵とごぼうと粕漬けが出たようなものだ。貴重な体験である。
真言宗の僧侶に、川崎大師にお参りしたら太鼓の音がすごく天台系とは別系統と感じたことを話したが、太鼓は関東で、関西は太鼓を叩かないさうだ。真言宗は太鼓が無しで、豊山派や智山派は叩くらしい。葬儀で真言宗の僧侶は法話無しの人が目立つが密教だからか質問したところ、葬儀社に取り仕切られて「導師の退場です」と云はれてしまふこともあるし、人にもよるらしい。
十月十八日(日)
金色の仏像
二階の本堂には元からある金色の仏像のほかに、黒色の仏像が左右に安置されるようになつて三年程経過した。最初、日本の大乗仏教の仏像だと思つてゐたが、ミャンマーの上座部仏教の仏像で金箔が無くなつたものだつた。ミャンマー人の夫人の話では長い歴史の中では金を削り取る不心得者がゐるといふ。
その仏像が二体とも金色になつた。ミャンマーから職人を呼び日本で作業し、職人は数日前に帰国したとの事だつた。日本の黒い仏像も元は金色だつた。そんな話が仏教に詳しい日本人から出された。なるほど日本の仏像は黒かと思つたが、こちらも元は金色だつたのか。上座部仏教から大乗仏教が判ることもたくさんある。(完)
上座部仏教(31)へ
次、仏教(七十八)へ 上座部仏教と大乗仏教(統合後)は仏教に統合しました
前、大乗仏教(統合後)その四十六へ
次、仏教(七十八)へ 上座部仏教と大乗仏教(統合後)は仏教に統合しました
メニューへ戻る
前へ
次へ