六百八十六、「花燃ゆ」賞賛から批判へ

平成二十七乙未
四月五日(日) 低視聴率に負けるな
これまで見た限り「花燃ゆ」は久しぶりに大河ドラマ合格である。どこがよいかといへば話のテンポがよい。この一言に尽きる。テンポが遅く退屈な話の連続する番組は本当に嫌ひである。例へば軍師勘兵衛。これは話が退屈なばかりか演出がわざとらしい。
軍師ものといふと三国志演義が有名だが、こちらは蜀の滅亡が最後にあり諸葛亮の活躍と滅び行く運命の対比。これが1800年後の今でも読まれる理由である。。それに比べて軍師勘兵衛はいつたい何か。要領よくやつて大名になつた。その事実を皆が知るから美談が何もない。勘兵衛も家族も家来も皆が要領よくやつた人たちでしかない。勘兵衛は天下を狙つたのにできなかつた。さういふ話にすべきではないのか。それでも視聴率は三年ぶりに良かつた。
朝のテレビ小説で「あまちゃん」の次のごちそうさんは視聴率が「あまちゃん」より高かつたものの社会への影響度はほとんどない。私なんか三回見たもののいづれも数分でスヰッチを切つた。視聴率はまつたくあてにならない。

四月十一日(土) リベラルの批判
「花燃ゆ」を賞賛しようと思つたのは、リベラルの立場からの批判が目立つからそれに対抗してである。まづリベラルではない普通の立場から女性セブン誌へのイケメン俳優発言に対する批判がある。これは私も同感である。演技力よりイケメンを揃へたため、まづ配役が皆同じ顔に見えるし小田村の自分だけ利口ぶつた演技が好きになれない。次にリベラル側からの批判には反対である。幕末は黒船が現れ鎌倉時代に次いで国家意識が高くなつた。だから登場人物の国家意識が高くなるのは当然である。幕末物は興味ある話題が多い。長州藩の佐幕、倒幕の両派が激しく政権を交代する理由は誰もが興味を持つはずだ。

四月十一日(土)その二 第14回の放送
第14回の放送は本日再放送で観た。その感想は吉田松陰の過激な思想をうまく表してゐる。歴史物として次回に期待が持てる。その一方で長井雅樂が突然登場したが椋梨藤太、坪井九右衛門など他の佐幕派との関係などをもつと掘り下げるべきではないのか。三回くらい前に突然、椋梨が失脚し周布政之助が政務役筆頭になるがその経緯が安直過ぎる。

四月十二日(日) 佐幕派と倒幕派の評価は一定しない
佐幕派と倒幕派の評価を私は最近一転させた。これまで日米修好条約の締結について現実派が佐幕派、非現実派が攘夷派で井伊直弼が正しいと思つてゐた。しかし最近になつて一戦も交えず不平等条約を結んだとなると幕府側が悪い。一方で幕府は大名の人質を返したのに討幕派は仇で返した。これは討幕派が悪い。
ここまでが昨日の意見である。本日になつて、もし幕府が戦端を開いたら日本は一部を割譲させられたのではないか。ミャンマーがまづ南半分をイギリスに割譲させられ、次に全土が植民地になつたように、少しづつ切り取られただらう。幕府の悪いところは毅然とした態度でいざとなつたら一戦を交えるがさうではなく条約を結びませうといふことで平等条約を結ぶといふ姿勢ではなく、その場しのぎの態度に終始したことだ。
なぜ佐幕派と倒幕派の態度が一定しないかといへば、大結論として明治維新の行く末が大東亜戦争の敗戦である。討幕派を一概に悪者にしないためには、吉田松陰など初期の思想家と、高杉晋作が亡くなつたあたり以降の権力欲の時代の二つに分けることが可能である。

四月十八日(土) 視聴率回復の秘策
第15回の視聴率が一桁になつたさうだ。本日の午後一時過ぎに再放送で観るからまだ内容は知らない。まづ視聴率が低いのは統一地方選で放送時間が四十五分繰り上がったからだ。次に毎週の視聴率が低いのは常連の大河ドラマファンを切り捨てたためで、これは良いことだ。昨年の「軍師勘兵衛」のような演出の大げさで話のテンポの遅いつまらないものをよろこんで見る人が所帯数の15%くらいは存在する。さういふ連中に毎年合はせる必要はない。
とは云へ一桁では少ないから対策が必要である。ここに秘策がある。「あまちゃん」の出演者の何人かを幕末の役で東條させよう。せつかくテンポのよい番組なのだからそれで逃げるべきだ。
なほテンポのよい展開は各回ごとの話の筋とは無関係な内容に留まる。久坂と文がおみくじを引いて逃げたり、高杉晋作が相撲取りを後から蹴飛ばして逃げたりと、全体の話とは無関係のいはば蛇足である。文の弟が家のお金を持ち出して最初は晋作と酒を飲んで帰宅するのに、本当は写本を始めて家計を助けるためだつたといふ話は、これも蛇足ではあるが最後のどんでん返しと暖かい話でよい展開であつた。

四月十九日(日) 第15回を観て
昨日第15回の再放送を観て、放送時間の繰り上げの他に、今回は話が暗く松陰の思想が過激なのが原因だとつくづく感じた。しかし内容はよかつた。松下村塾が人材を多数輩出した理由は松陰の刑死にある。そこを見抜いた内容である。また、松陰と門下生たちとの隙間も描いた。内容が充実したが故に視聴者が付いて行けなかつた。
とはいへ私とこの番組は歴史考証がすべて一致するといふ訳ではない。番組では松陰が自分の刑死で門下生を奮い立たせようとするが、松陰は理論正しく主張すれば幕府の役人も理解すると考へてゐたのではないのか。

萩市の小学校は吉田松陰の書物を音読するし、市内には西回り「晋作くん」と東回り「松陰先生」といふ循環バスがある。ここは外国の圧力で過激にならざるを得ないことを加へて、晋作くん松陰先生程度の親しみが必要である。

四月二十日(月) 第16回で退屈な大河ドラマに戻つた、その一
今回はよくない演出があつた。ところがその10分ほど後に松陰が「自由」と叫ぶ。今までと180度の路線変更である。政治番組ではないから言葉自体は問題ない。ドラマの路線変更があつた。このことこそ重要である。視聴率の低さでNHKの内部でも途中で打ち切りになるのではと噂があるだ。さきほどよくない演出があつたのは路線変更で急遽内容を変えたため時間を合はせるためか。さう考へてゐたところ、肝心の演出そのものを忘れてしまつた。
もう一つ最後のほうに悪い演出があつた。野山獄の司獄が外出を許してくれたのに、主人公の文が松陰に逃亡を勧める。そんなことは道義上絶対にしてはならないしこの時代の人がするはずがない。司獄はおろか杉家、小田村家は取り潰しの上、多数が切腹、入牢になるだらう。そもそも主人公は久坂と結婚したことで明らかなように思想で松陰に近いはずだ。しかしこのドラマでは単なる近親者として松陰に肩入れする。
久坂の扱ひが地味でよくない。久坂は熱血なだけではなく松下村塾の逸材である。配役を高杉晋作と入れ替へたほうがよかつた。これは暗に東出昌大は逸材の役は向かないと言つてゐるようなものだが、それはさておき朝ドラの人気を大河に持ち込まうといふNHKの安直な人選が久坂を地味にしてしまつた。あ、朝ドラの人気に便乗するのは私も一昨日述べたばかりだつた。

四月二十四日(金) 第16回で退屈な大河ドラマに戻つた、その二
第16回が突然悪くなつた理由を探るため、自由を叫ぶ部分までを再度見た。まづ前半は文が嘆いたりヒステリックに叫ぶだけでこれでは観る者が不愉快になる。一人でうろたへて父親に「見苦しく動くな」と制止されるが、本当に見苦しい演出である。久坂が帰宅してもそのことより松陰の書物を探すことに必死になり、父親から注意される。
この時点では松陰が死刑になる確率は低いからそもそもこの演出は成り立たない。そして松陰が「ナポレオンを呼び起こしフレーヘイド」「自由だ」と叫ぶ。外圧で植民地になるかどうかのこの時代にそんなことを叫ぶ訳が無い。もし叫んだとすれば文脈を無視し一語だけを取り出した悪質な情報操作である。この番組は新自由主義に転落し、それでNHK内部の支持を取りつけようといふ魂胆としか取りようがない。

四月二十六日(日) 井上真央の謝罪
五日ほど前、井上真央がいろいろな原因があると思うんですけれど、主人公である私の力不足であるとしか言えないと謝罪した。そのとほりである、一人でうろたへたり嘆いたりするだけの下手な演技には驚く、と言ひたいが本当に悪いのは脚本である。松陰の妹にそんなことをさせてはいけない。松陰は幼少のときに藩侯の御前で講義をした。家族は秀才を誇りとは思つても迷惑だと思ふことはない。次に脱藩したり黒船に乗り込まうとすると天才と紙一重の兄を普通の人に戻さうと試みたり世間を憚ることはあるだらう。こんな下手な演技を繰り返せば視聴者は納得すると考へる演出者と制作者にはあきれる。NHKは民営化を視野に入れるべきだ。

四月二十七日(月) 松陰の処刑
昨日の放送は松陰の江戸での取調べと処刑だつた。牢名主とのやり取りなどテンポのよさは取り戻したようだ。今後観るのは椋梨藤太の失脚か赤禰武人の処刑辺りまでだらう。前原一成の乱と西南の役だけ臨時に観るかも知れない。(完)


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