五百十五、朝のテレビ小説「あまちゃん」(その八、年末年始の「あまちゃん」)


平成二十六甲午年
一月三日(金)「あまちゃん祭り」
十二月三十日は「暦の上ではディセンバー・これで見おさめ! じぇじぇじぇ! あまちゃん祭り」が朝八時から夕方六時まで放送された。私は番組のあることを知らなかつたし帰省のために移動したから午後二時から最後まで観た。もし知つてゐたとしても全部観たかだうかは判らない。何しろ十二月に観たばかりだつた。しかし四時間観ると実に面白い。ダイジェストなのでテンポがよい。

一月三日(金)その二「次の朝のテレビ小説『ごちそうさん』」
大晦日は次の朝のテレビ小説「ごちそうさん」の前半総集編があり途中でスヰッチを入れた。丁度主人公が大阪に着いて向ふの家の人達に会ふところだつたが、お菓子をむしゃむしゃ食べるところがわざとらしくてスヰッチを切つた。初対面の人の前では誰でも行儀よくするものだ。あんなわざとらしい演技はない。
たまたま演出の悪い場面かも知れないので三十分ほどしてもう一度スヰッチを入れた。今回は主人公が東京から持つてきたぬか漬けの瓶を姑が捨ててそこに主人公が現れて捨てるなと言つてあつたのにと云ふ場面でやはりつまらなかつた。どこがつまらないのかと言へばそのような場合は予め話合つてぬか漬けは家族の料理のときには出さない代はりに台所の隅に置くのは構はないと解決しておくべきだ。あれでは意地悪女どうしの醜い争ひだ。
元日にNHKは「ごちそうさん」の前半総集編を再放送した。つまらないものを大晦日と元日に二回放送するなと文句を言ひたくもなるが、最初から観ると感想が違つてくるかもしれないと三度目を観た。主人公がクリームを飛ばして近くの学生の服に付く場面で堪忍袋の尾が切れた。
結局三回観ていづれも最初の数分でスヰッチを切つた。「あまちゃん」があれだけ社会に話題を与へたのは普通は朝のテレビ小説を観ない人達が別の時間帯に観たからだ。人それぞれ嗜好が異なるからそれは構はないが朝の視聴率が「あまちゃん」を超えたといふニュースがやたらとマスコミに登場しNHKもその気になつてゐるため一言述べた。

一月三日(金)その三「裏方には裏方の美学がある」
紅白歌合戦で「あまちゃん特別編」が十五分間あつた。結衣を北三陸から東京のスタジオに呼ぶのに「ゆく年くる年が終つてさだまさしがだらだらしやべつてゐる頃だ」といふ菅原のせりふ、結衣かと思つたら今野弥生だつた、東京に向ふときの第157話「おら、紅白でるど」、タクシーで到着後に正宗は中に入れない、と笑ひは盛り沢山、歌も三曲で盛り沢山でよかつた。
唯一よくないのは裏方がでしやばつたことだ。暦の上ではディセンバーを裏で歌つたメンバーは踊つてはいけない。番組であのメンバーが踊ることは無かつたから紅白で踊るのは偽装演出である。コーラスとして舞台に出演すべきだつた。大友良英氏も同じで「あまちゃん」の本放送のときに橋幸雄のオーケストラにめがねを掛けて変装して出演したくらいが一番適切だつた。そのあと本放送で素顔で出たときはやり過ぎだつた。今回の紅白歌合戦のスクリーンの前で演奏するのは完全にやり過ぎである。スクリーンの右の他のバンドメンバーといつしよがよかつた。

一月四日(土)「精一杯の活躍、中央と地元」
紅白歌合戦で舞台の後方の「スクリーン」に本放送の各場面が映し出された。声がないから表情だけを見ると皆が精一杯に活躍する姿が余計判る。この姿も「あまちゃん」の隠れた人気である。そして活躍の先が地元の復興、つまり中央ではなく地元、巨大産業ではなく零細産業、輸出産業ではなく生活産業といふところに共感を呼んだ。
日本の政治家で人気があつたのは浅沼稲次郎、田中角栄、美濃部亮吉、石原慎太郎、橋下徹でいずれも最初は精一杯活躍し中央(アメリカ)ではなく地元(日本)のために努力した。しかし暗殺された浅沼稲次郎を除き他はアメリカに擦り寄つたり(石原、橋下)、都知事の地位の維持や国会議員の地位に擦り寄つたり(美濃部)して晩節を汚した。

一月五日(日)「本物のまめぶを食べる」
二日にまめぶを食べる機会があつた。或るゲームセンターに行くとあまちゃんに似た柄の女性が入口にゐた。何かの受付だらうと気にせず中に入つたがたまたま入口をもう一回通ると北の海女といふはちまきをしてあまちゃんの羽織半纏を着てゐる。二日、三日はまめぶを無料で食べさせてくれる企画だつた。
食べてみると団子の中の甘さと汁のしよつぱさが丁度よい味である。番組では微妙な味といふ言ひ方でどちらかと言へば否定的だつたが、実に美味しく頂いた。(完)


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