六百四十九(乙)スマナサーラ師の書籍(その三)「沙門果経」

平成二十六甲午
十二月三十日(火) サンガの民主主義
三冊目は初期仏教経典解説シリーズ1「沙門果経」である。まづビンビサーラ王の話、その次に六師外道の話が出てくるがこれらは省略し、 「サンガは民主主義」といふ節に次の話がある。
お釈迦様の弟子たちは全員「サンガ」というシステムに属しています。この制度ではいわゆる教祖のようなリーダーはいません。(中略) 現在のタイ国には、僧王という資格(称号)があります。(中略)いったん決めたら亡くなるまで法王です。でも、特別に権力があるわけでは ありません。{層王」として尊敬はしますが、立場としては平等です。(中略)全員に権利があるからです。どんな権利かというと、サンガの 民主主義を「守る権利」です。「壊す権利」はないのです。そのあたりはものすごく賢くつくってあります。(中略)何事も全員一致で決めなく てはいけません。多数決ではないのです。(中略)きちんとした民主主義ですから、別に堅苦しくはないのです。もしも年上のお坊さんが 間違っていれば、堂々とその間違いを指摘して一向に構いません。(中略)ですから、みんな大変気楽に、楽しくいます。

多数決が正しくないのはそれが西洋の猿真似だからである。日本では普通の組織は全会一致で決まる。勿論意見の相違はあつても話し 合ふうちに全会一致になる。日本もアジアの一員なのだと判る。ただしこの方法は現状を維持できても組織が緊急のときに機能しない。 世間では緊急のときは責任者に一任して事後承諾を求めるなどこれも会社が倒産しさうなときなど適用されてゐる。

十二月三十日(火)その二 神々
お釈迦様を表すいろいろな言葉のうちの天人師(神々と人間の師匠)について
「やっぱり神々はいるんだ。では拝みましょう。」と考えると変な方向に行ってしまいますから、そこはすごく気をつけたほうがよいのです。 仏教では、生命はすべて平等と考えています。神がいるかいないかではなく、神様であろうが、偉いとは思っていないということです。

ここまでだけ読むと私とスマナサーラ師は著しく意見が異なることになる。仏教では死後や来世を認めるのと 同様に神々も存在するしその場所は多くの神々が天である。住む場所も異なるし人間より能力に優れるから平等とは考へないし、ましてや 「神がいるかいないか」ではなくゐるといふ立場である。さう思つて次を読むと
奴隷のたとえで王様に言った「あなたも人間です。私も人間です」という言葉と同じように、神々に対しても「あなたがたも生命です。私も 生命です。あなたは徳を積んで髪になったのです。だったら私も徳を積んだら、神になれるでしょう」という立場なのですね。

これなら賛成である。スマナサーラ師は多くの質問に答へるからなかには神々の質問で拝んでよいかといふのも出てくるだらう。それへの 回答で、これなら賛成である。

十二月三十日(火)その三 お守り
「比丘は殺生を捨て、殺生から離れている」。これは有名な戒律ですね。次の言葉は、「棒を置き、刀を置いて いる」。殺生しないだけではなくて(中略)「武器を持たない」という論理です。(中略)出家はいろいろな悪霊から自分を守るために、ちょっと したお守りを身につけたりします。ミャンマーならいっぱいあるし、タイも迷信的なお守りがきりもなくあります。スリランカも負けてはいません。 (中略)お守りを武器にして悪霊を脅すことさえもよくないので(中略)出家はお守りを身につけてはいけないのです。

私はこの主張に反対である。出家がお守りを身につけてはいけない理由があるとすれば、釈尊の弟子として修行中の比丘に悪霊が来る はずがない。一方で信者の中にはお守りを求める人もうぃ。そのとき比丘も同じお守りを着けると知ればどんなに心強いことだらうか。だから 比丘もお守りは着けたほうがよい。その理由は自身の身を守るのではなく信者を安心させ教導する目的である。スマナサーラ師は
日本の寺には昔から、修行をしたお坊さんたちが作った立派な庭園があります。(中略)しかし、植物の命もいじってはいけないというブッダ の立場から見ると疑問なのです。(中略)庭園を造るために、多くの自然破壊をしていますね。また、樹形を整えるために、伸びて来る枝は 切手しまうし(以下略)

これは同感である。私は日本庭園が好きではない。自然にしておけば多くの生物がすむ。そのほうがはるかによい。このように考えると自然を 破壊する近代文明は仏教の敵である。

十二月三十日(火)その四 自然破壊から離れる
ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、(中略)種子類、草木類の伐採にふけっている。

それに対し仏教の比丘は伐採から離れてゐるといふことが経文に書かれてゐる。スマナサーラ長老は
日本の寺には(中略)立派な庭園があります。(中略)しかし、植物の命もいじってはいけないというブッダの立場から見ると疑問なのです。確かに、 庭園の場合は植物をとても大事にしています。しかしその庭園を造るために、多くの自然破壊をしていますね。

これは同感である。日本庭園よりは自然のままにしておいたほうが多くの生物が棲息できる。このように考へると自然を破壊する近代文明は 仏教の敵である。仏教だけではない。全文明の敵である。

十二月三十一日(水) 心の戒律
戒律には四種類あり一番目が出家者の二百二十七戒、二番目が出家として品格のある正しい生き方、三番目がこれから解説する感覚器官 の防護、四番目は衣食住と薬の量と目的を知つて、不浄を観察し執着しない、として三番目の解説に入る。
比丘は、眼によって色を見る場合、その外相を捉えることもなく、その細相を捉えることもありません。

として六根を守る話に入る。

十二月三十一日(水)その二 ヴィパッサナー瞑想
また、大王よ、比丘はどのように、念と正知をそなえているのでしょうか。
ここに大王よ、比丘は、進むにも退くにも、正知をもって行動する。
(以下、真直ぐみるにもあちこち見るにも、曲げるにも延ばすにもなど続き、どれも「正知をもって行動する」が続く)


スマナサーラ師は
ここで書いている正念と正知は「ヴィパッサナー(vipassana、最後のaの上に横線)瞑想」 の実践として知られているところです。ヴィパッサナーで、正念の実践をするときには、正知とつなげていなければいけません。

とする。私はほとんど瞑想に深入りしてゐない。それは出家が瞑想し在家はそれを支へることが二千年間の伝統だつたからだ。しかし釈尊の時代 は在家も瞑想をしたし、戦後はミャンマーで瞑想がさかんになり、タイでも近年の経済成長とともに逆に瞑想がさかんになつた。そろそろ瞑想にも 本腰を入れたいところだ。スマナサーラ長老は六根による
情報は身体に勝手に触れるものですから、(中略)心が欲と怒りで汚れないように気をつけるのです。(中略)悪・汚れを抑える行為ですから、この 戒めは戒律になります。
次に出てくる問題は、人の意図的な行為・行動です。立ったり、歩いたり、座ったりすることは、人が意図的に、自分の意思で行う行為です。その 行為によって、人は新しい情報を得たり考えたり、知識を発展させたりしますが、これらの意図的な行動も心が汚れます。ですから、悪になる行為 として戒律で禁止しているのです。


ここはよく判らない部分である。今後勉強したい。長老は更に
お釈迦様は「言葉で確認しなさい」とおっしゃっているのでしょうか?他の優れた方法はないのでしょうか?
ただし、最初から「感じる、感じる」とだけラベリングしても、思考は止まってくれません。(中略)修行が進むと、物事がとても早く、瞬間的に、変化して ゆくことに気づくのです。(中略)言葉で確認することは気づき(sati)の実践ですが、正知(sampajana、後から二番目のaの上に横線)も同時に必要 です。(中略)この条件が欠けると修行は進みません。


とあるがここも勉強しないとよく判らない。


前、上座部仏教(27)
次、上座部仏教(29)

メニューへ戻る