六百四(甲)、岡倉天心

平成二十六甲午
八月二十三日(土) 大久保喬樹「日本文化論の名著紹介」その一
岡倉天心の著作を読んだが、どうもしつくり来ない。その理由は外国人向けに英語で書いたものを日本語に訳したためで、 決して翻訳が悪いといふ訳ではないが、日本人向けではないため内容がくどいように感じる。次に松本清張の岡倉天心を 読んだ。これはひどい内容なので後日批判したい。といふことで大久保喬樹「日本文化論の名著紹介」のなかの、岡倉天心 の節を紹介することになつた。他の節はともかく岡倉天心の節は良質である。
天心は伝統日本美術復興運動を進める一方、早くからアジアに目を向け、一八九三(明治二六)年には、日清戦争直前で 危険な状況であったにもかかわらず、半年近くにわたって中国各地を探訪してまわりました。さらに、一九〇二(同三五)年 にはインドに渡り、詩人のタゴールや宗教家のヴィヴェーカナンダらと親しく交わったほか、やはり各地を巡礼のように旅して まわり、一年ほど過ごしました。


そして日本−アジア文明感をまとめたのが最初の著書「東洋の理想」だと大久保氏はいふ。大久保氏は三つを引用するが、 一つ目は
アジアは一体なのだ。ヒマラヤ山脈をはさんで東西に分かれる中国とインドという二つの強大な文明それぞれの性格は(中略) 際立って対照的だが(中略)一瞬たりとも途切れずに流れつづけているのだ。


ここまで100%賛成である。しかし二つ目のこうした複雑なネットワークをまとめあげ、アジアの 一体性を明確な姿に実現してきたのは日本であり(以下略)と三つ目の日本はアジア 文明の博物館なのだ。いや、博物館以上ののものだ。には反対である。アジアは一体であり日本はその中の一つ である。日本だけ特別だなどと考へてはいけない。

アジアはなぜ一体なのだらうか。拝米拝西洋学者の中に、アジアは仏教、イスラム教、ヒンズー教があるから、XX教といふ 共通点のある西洋とは異なりばらばらだと主張する人がゐる。アジアは非西洋といふことで共通なのだ。だから西洋の中でも 化石燃料消費文明に反対する人がゐれば、これも仲間である。
天心の時代は常に植民地にされる危険があつた。だから産業と軍事力を西洋化させた日本が中心にならなければといふ思想 があつても今の感覚で批判はできない。そこを割り引いて考へないと天心の本質を悪く解釈することになる。

八月二十四日(日) 大久保喬樹「日本文化論の名著紹介」その二
以上が序章で、本論からは一ページ半に亘る長文を引用してゐる。
アジアは単純簡素な暮らしを伝統としてきたが、それは、蒸気と電気に導かれて発展してきた今日のヨーロッパと比べても、少しも 恥ずかしくないものだ。(中略)アジアは、時間を征服しようと血眼になって邁進する鉄道からもたらされるような激烈な喜びという ものは知らないできた。しかし、アジアには、巡礼や遊行僧など、はるかに奥深い旅の文化というものが今なお生きている。インドの 修行者は村の主婦たちに食べ物を乞い、夕暮れ時になるとどこかの木の下に座って土地の農夫とおしゃべりしたり紫煙をくゆらせ たりする(以下略)


大久保氏はこれらについて
やがてこうした近代西欧型文明は行き詰まることになるだろう、その行き詰まりを乗り越えるためには、いま一度、伝統アジア型 文明を再生しなければならないと天心は考えるのです。


と述べるが私も同感である。

八月二十四日(日)その二 松本清張の悪書
松本清張「岡倉天心 その内なる敵」は天心の悪口の羅列である。こんな酷い本を書いた理由は、清張が天心を国粋主義と断定し偏向に 満ちた批判に終始したようだ。だから天心の上司で同じく日本画を尊重した九鬼隆一についても松本清張は悪口を羅列した。
岡倉天心は決して守旧派ではなく日本画の改良にも乗り出した。それが没線描法で弟子たちの描いたその作品は「朦朧体(もうろうたい)」 と呼ばれ世間からその当時は高くは評価されなかつた。天心が美術学校校長を非職になるときを清張は女性関係を含めて極めて悪く書くが、 当時の道徳規範を考へる必要がある。例へば島崎藤村も姪との恋愛事件を起こしてゐる。
天心はその後、日本美術院を谷中初音町に創設し後に茨城県の五浦に移転する。どちらも経営難との闘いだつた。谷中初音町は私が 小学生のときよく自転車で走つた小道である。最初その存在に気付かずあるとき天心記念公園に気付いた。今回調べてみると昭和四十二年 に開園とあるから私が小学校六年生のときである。気付かなかつたのではなく開園前だつた。松本清張は天心は官僚主義だとする。美術学校 校長のときまではその傾向が或いはあつたのかも知れない。しかし経営難の中で日本美術院を運営した天心は官僚主義を離れた。

八月二十八日(木) 岡倉登志、岡本佳子、宮瀧交二「岡倉天心 思想と行動」、その一
岡倉登志、岡本佳子、宮瀧交二の三氏の共著「岡倉天心 思想と行動」は名著である。岡倉登志氏は天心の曾孫だが松本清張と異なり 冷静に分析してゐる。松本清張を最初に読んだときはずいぶん偏向した書き方だと思つたが、三氏の共著を読んでみて改めて松本清張 の悪質さが浮かび上がつてくる。岡倉氏は序章で
天心は美術教育のみならず、工芸、貿易、生活一般において東西美術のいずれかを採るべきであるかに論点を絞り、四つの立場をあげる。 第一、純粋の西洋論者、第二、純粋の日本論者、第三、東西併設論者すなわち折衷論者、第四、自然発達論者で、自分は第四の立場を 選択すると明言し(以下略)


私もこの立場に賛成である。私自身第四の立場である。今まで四つに分類をしなかつたから気がつかなかつたが、この分類法があるなら 断固第四である。天心は
「(自然発達とは)過去の沿革に拠り現在の情勢に伴って開達するものである。東西の区別を論ぜず美術の大道に基づき理のあるところは これを究め」「イタリアの大家中に在って参考すべきものはこれを参考し、油画の手法もこれを利用すべき場合においては、これを利用し、 ことさらに試験発明して将来の人生に適切な方法を採らなければいけない」そして、「美術は天地の共有物であり、東西の区別さえ設ける べきではない」(以下略)


これも概ね同感ではあるが、私の考へでは芸術を含む文化の定着には時間が掛かり、その時間に耐へられたものが文化である。だから 停滞がひどい場合や取り入れたほうが明らかによい場合を除いて「これを利用し」「ことさら試験発明して」は無理があると思ふ。
天心は、美術の精神性を重んじ、ダ・ヴィンチやミケランジェロのようなイタリアの大家やバルビゾン派の作品は西洋の作品であるが、 東洋の優れた作品に見られる精神性または写真の高さを認めた。同様に、音楽の世界ではベートーベンを高く評価したのである。


ここは天心の考へに100%賛成である。

八月二十九日(金) 岡倉登志、岡本佳子、宮瀧交二「岡倉天心 思想と行動」、その二
佐藤道信氏は「明治国家と近代美術」で次のように述べたといふ。
フェノルサと天心の活動は(中略)多分に文明論的な視点から、「西洋美術史」に対する「日本東洋美術史」を構築しようとした傾向が強い。


小路田泰直「日本史の思想−アジア主義と日本主義」に注目した稲賀繁美氏は図書新聞(一九九八年三月)で。
印度の道徳と支那(括弧内略)の哲学を美において統合する、「東洋の博物館」たる日本、という発想は、本書編纂をした岡倉天心の基本的 発想であった。だが天心が編纂途中で解任され、福地復一が後を襲う。(中略)天心の重視する「空海時代」は「桓武天皇時代」に、「東山 時代」は「足利氏幕政時代」に代わり、ともに予定紙面が半減する。そこに、天心と福地との個人的な確執のみならず、全アジアの統合を 描く天心史観と(中略)水戸学名分論との衝突を見る仮設もある。


岡倉登志氏の序章は、この本の結論を要約した内容で、以上のほかに次の記述もある。
・保田與重郎も、「明治の精神」(一九三七年)を書き、正岡子規や高山樗牛とともに天心に敬意を払っていた。
・ケヴィン・マイケル・ドーク「日本浪漫派とナショナリズム」が(中略)福沢諭吉の「脱亜入欧」(括弧内略)の信念の逆である「入亜脱欧」の指針に なったのが天心の「東洋の理想」であり、天心は、同書で汎アジア主義の宗教的、審美的、人道主義的な側面を強調していた(以下略)。
・左翼で、治安維持法適用で投獄されて獄死した三木は(中略)東亜(東アジア)共同体(中略)の視点から天心の『東洋の理想』に注目した。


三木とは三木清で
「アジアは一つだ」という天心の言葉は、その歴史的真実はともかく、一つの神話を表したものだ。(中略)インドの志士の間に流布されて、その 独立運動のモットーとされたのであるが、この神話は、いわゆる白人帝国主義から東洋の民俗を独立させようとした時代のものとして意義が あったのである。


私と三木清氏及び岡倉登志氏との違ひは、アジアは一つといふ言葉は「歴史的真実はともかく、一つの神話」ではなく歴史的真実である。それは 西洋文明と対峙させれば判る。岡倉登志氏の場合、天心と比べて西洋文明に毒された部分がある。私はこの現象を世代の相違と呼ぶ。勿論普通 の国民に比べれば岡倉登志氏の世代の相違は極めて少ない。

九月六日(土) 大久保喬樹「岡倉天心」
大久保喬樹氏の書籍『洋行の時代−岩倉使節団から横光利一まで』『日本文化論の系譜−「武士道」から「『甘え』の構造」まで』など何冊か読んだが、 どうも本質を見ずに余分なことばかり書いてゐる。パリに三年間留学したことが原因だらう。そのなかで「岡倉天心」は松本清張の悪書と比べれば 客観的に岡倉天心を記述しほとんどがまともではあるが、ときどき変な蛇足文がある。天心が初めて欧州視察に行き、法学者シュタインに会つた ときの日記について覚三の反応には著しく屈折したものが認められる。と書くが屈折はしてはゐない。伊藤 博文がシュタインに会つたときは猿真似に必死だつたが天心の世代では第三者的に観察できる。或いは「アジアは一つ」について やがてこの句がひとり立ちし、肥大化して、日本軍部の南方進出−大東亜共栄圏思想に組み込まれていったのも、天心の本意に添うかどうかは 別として、下地はあったと言える。と書く。冗談ではない。天心の「アジアは一つ」と大東亜共栄圏は何の関係もない。後者はアメリカから 石油輸出禁止にされた日本の軍部が苦し紛れにインドネシアの油田を占拠すれば自活できるのではないかと考へただけだ。天心とは何の関係もない。

この本も岡倉登志、岡本佳子、宮瀧交二「岡倉天心 思想と行動」も天心の中国旅行を有意義だつたと書いてゐる。中国の古都に古い美術品が 残つてゐなかつたとしてもである。ところが松本清張は中国を先進国日本の立場から悪く書いた。清張の本質は西洋かぶれである。

九月十八日(木) 佐藤志乃「朦朧」の時代、その一
横山大観記念館学芸員佐藤志乃氏の書いた『「朦朧」の時代』を見よう。なを私は学芸員或いは司書といふ人はごく一部を除き好きではない。法律で 決められた職種に安住するからだ。佐藤氏を評価するとすれば学芸員ではなく横山大観記念館に関係する部分である。しかしこの著書は博士論文 に加筆したものだから横山大観記念館とは無縁の立場で書かれた。その欠陥が現れることになる。
まづ『「朦朧」の時代』の特徴は、多くの人が天心の美術学校校長非職が洋画との対立とするのに対して、日本画伝統派(この本では守旧派)との対立が原因 とすることと、朦朧体批判の前から伝統派との対立はあつたとすることである。

九月二十日(土) 佐藤志乃「朦朧」の時代、その二
明治年間の日本美術院や大観、春草らへの批判は大村西崖のものが多い。東京美術学校騒動は春草の卒業制作「寡婦と孤児」を巡り、「これではお化けだ」と 批判する福地復一と、最高点を与へようとする橋本雅邦の対立が原因だが、西崖は福地の側に付いた。西崖は
岡倉さんは酒を飲んで盛んに遊ぶ。それを取り巻いてワイワイ飲み廻る連中が岡倉さんの気に入つて引立てられるといふ風であつた。私のように真面目なものは 一向に気に入られなかつた。

と書く。これだと悪いのは天心である。
またこの当時は「鵺(ぬえ)画」「雑種画(あいのこえ)」といふ語もあり狩野派、四条派、土佐派など伝統各派の混合への批判であつた。伝統と洋画の混合への批判 にもこの語は用いられた。次に天心派と伝統派の中間に目を向けよう。
日本絵画協会では、東京美術美術学校を卒業して間もない大観や春草らが、天心の擁護のもとで脚光を浴び、正統な技術を身につけてきた画家のほうがはじかれて しまう、という立場の逆転が起こっていた。(中略)不満をおぼえた画家たちは、日本絵画協会から離れ、かといって固陋な日本美術協会に行く(戻る)わけにもいかず、 美術団体をあらたに結成することになる。

このうちの烏合会に対して西崖は
浮世絵描きでも此仲間(日本美術院)にはいつて居るものは、矢張大抵かぶれて来て、いつもの当世美人やなんかばかりかゝないで、澄ました高尚ぶつたものをかく やうになつた

と批判した。具体的に批判されたのは鏑木清方の「暮れゆく沼」といふ絵画だが
清方自身の回想によれば、この作品の作風は小坂象堂(しょうどう)からの影響を強く受けたものであったという。象堂は、洋画家として出発し、やがて日本画に転向して 自然主義を唱えた画家として知られる。つまり清方は、日本美術院が掲げる「理想主義」とはむしろ反対の主張に傾いていたことになる。


以上見てきたように、佐藤氏の主張は天心は日本画を目指したのではなく日本画と洋画の折衷を目指したことになり、これは天心の本当の目的を理解 してゐないことになりはしまいか。この当時、既にインドはイギリスの植民地になり、中国は西洋列強とそれに日本も加はり虫食ひ状態だつた。植民地を 解放するために西洋に負けない美術を創る。それが天心の目的だつた。これが正解ではないのか。(完)


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