五百六十八(乙)、都営地下鉄一日乗車券で下町巡り(昭和四十年代の団地、国柱会本部、蔵前、小島町、板橋宿、高島平)

平成二十六甲午
五月六日(火)「大島、本八幡」
春の連休は東急バス(五月三日)に続き本日都営地下鉄一日乗車券で下町巡りをした。まづ新宿線に乗つたところ急行で一之江に止まらないので大島駅で下車した。数年前に南浦和団地が解体新築された。その様子を見て昭和四十年代の公団住宅は記録すべき文化遺産だと気付いたためである。
高層の大島六丁目団地であり、一階の商店街、中央の広場を一周して駅に戻つた。七棟あり昼間に気温の上がることを期待しポロシャツの上に羽織らず家を出たので地下鉄の駅から地上に出ると寒い。伊藤左千夫の碑があると地図にはあつたが見つからなかつた。帰宅後調べると時計塔に詩が刻まれてゐる。

次に乗つたのも急行なので終点の本八幡まで乗つた。連絡通路をJRの駅まで行つたのちに地上を京成八幡駅まで走り(寒かつたので)、そして連絡通路で都営地下鉄に戻つた。本八幡は改札口の数が少なく小さな駅といふ印象を受けた。

五月七日(水)「一之江」
一之江で降りて国柱会本部に行つた。田中智学は一之江の妙覚寺で出家したがどのような寺なのか、田中智学の読経はどのような形式だつたのかを調べるのが目的である。日蓮関係者とは手を切らうと言つておいてなぜ訪問するのかと質問されさうなので説明をすると、日蓮と敵対する訳ではない。仏教全体の一部として更には社会全体の一部としてどう調和させるかを考へるべきだ。国柱会入口の説明書きによると宮沢賢治と石原莞爾の遺骨もここにあるさうだ。納骨堂にお参りした。納骨の名前が載るのはこの二名だつた。これはよいことである。
田中智学と日興門流の教義はどこまで同一だらうか。国柱会の本尊は題目の下に日蓮在御判と書かれ、これは日興門流と同一である。つまり石原莞爾と創価学会は同じ形態の本尊を拝んで来た。
次に法華経の中でも二品を読誦するか全品を読誦するかで、田中智学の書籍を数年前に読んだところ限りなく日興の教義に近いから絶対に二品だけを読むだらう。さう確信して妙信正軌(2000円)を購入した。最初は受付で質問しようと思つたが妙信正軌があつたので購入することにした。受付では宮沢賢治の星めぐりの歌のCDも売つてゐて最初はこちらを購入しようかと思つたが妙信正軌にした。

その後、妙覚寺に行つた。日蓮宗の寺が三つある。中山法華経寺の末寺である。

五月八日(木)「東大島、浜町、馬喰横山、押上、本所吾妻橋、蔵前」
東大島では大島四丁目団地を見た。ここは都電29系統(須田町-葛西橋)と38系統(錦糸堀車庫-門前仲町)が廃止になる前に何回も横を通つた。この団地は大きなコミュニティといふ印象である。商店街、公園と団地が調和する。私は団地が年代により公共部分がどれだけ変化するかを見てゐる。
グルメシティ大島店といふスーパーでお昼を買つたが寒いのと公園に手を洗ふところがないので、地下鉄の駅のベンチで食べた。

次に浜町に行つた。三年前に或る組合員の争議で抗議集会に来たことを思ひ出した。浜町公園の先である。この組合員は金銭解決で退職の後、日本中を騒がせたユッケ集団食中毒事件で倒産した会社の管財人を務め、明日はテレビで記者会見なので精一杯努力しますと答へると言つてゐた。
今回は浜町公園の清正公寺に行き麻布の清正公とは関係なく熊本の末寺なことが判つた。次に明治座の前まで行つた。水天宮の一時移転先にも寄つた。

馬喰横山は浅草線に乗り換へるため下車したのだが改札口に鉄道馬車の壁画があつた。馬の置物もあつて馬喰とは伯楽とも書き馬医、馬の世話をする人と解説があつた。私は今まで馬喰の意味を知らなかつた。ここで薬研(やげん)堀不動院に寄つた。講談、川崎大師別院といふ二つの理由で予て名前は聞いたことがある。この辺りで地下鉄から地上に出るため階段を上がるときに走ると地上で寒くないことを発見した。それまでは地上を走ることで体を温めたがこれだと暖まるのに時間が掛かる。必要は発明の母、試行錯誤は発見の父である。

浅草線の押上で降りた。乗降客が多いのに階段が狭い。それはスカイツリーが出来たため駅の容量と不均衡になつたためである。私はスカイツリー付属建物のソラマチ商店街の入口だけ見て中には入らず、エスカレータで六階、七階の食べ物街(ソラマチダイニング)まで上がつただけでエスカレータで降りて押上駅に戻つた。混雑具合でスカイツリーの下まで行かうと思つたが混んでゐた。

本所吾妻橋で降りてアサヒビールに行つたが見るものが何もなく吾妻橋を渡り浅草から地下鉄に乗つた。大江戸線に乗り換へるため蔵前で降りた。蔵前と聞くと我々の年代は蔵前国技館を思ひ出す。街路の地図を見ると蔵前公園と御蔵前公園がある。このうちの御蔵前公園に行つた。何の変哲もない小さな公園だつたが隣に神社がある。次に道路を渡り下水道局の施設の横を通り蔵前の碑を見た。家に帰りインターネットで調べると下水道局のある場所が昔の国技館だつた。

五月九日(金)「新御徒町、巣鴨、板橋区役所前、板橋本町、西台、高島平」
新御徒町は下町の雰囲気を残してゐる。三階建ての木造商店兼住宅、裏の長屋、アーケード商店街を見た。

巣鴨はとげ抜き地蔵に行つた。おばあちゃんの原宿と呼ばれて久しいが世代交代で寂れたのではないだらうか。さう思ひながら訪問するとお年寄りが相変わらず多数ゐた。若い人も多数混じつてゐてなるほどこれなら世代が交代しても大丈夫だと思つた。水で洗ふお地蔵さんは待つ人が列を作つてゐた。商店街の賑はひもすごい。とげ抜き地蔵の先まで混雑が続くところを見るととげ抜き地蔵ではなく商店街が目的の人がほとんどで、相乗効果といふやつである。

板橋区役所前では宗仙寺といふ日蓮本宗のお寺に行つた。京都要法寺の末寺である。小さな木造のお寺を予想したがコンクリート二階建ての大きな建物だつた。明治年間に大阪の寺を東京に移転させた。本堂は鍵が閉まつてゐるので外からだけ見た。本堂は見なくても歴代墓地だけは見るのだがコンクリート作りの冷たさに負けて忘れてしまつた。普通の宗派は賽銭投げ入れ用に本堂の扉が少しだけ開くが要法寺末は不授不施を守るのだらう。但しそれは飢饉疫病や戦乱の場合である。

次に板橋本町で降りて旧中山道の環状七号の南側の縁切榎を見た。環状七号の北側はかつてJR不乗車運動をやつたときに都バスをここで降りて浦和まで歩いたから馴染みの場所である。次に西台で降りた。かつて高島平操車所から浦和駅西口まで国際興業のバスがあり西台から乗つた記憶がある。ロケットといふ家電量販店がバス停の北側にあつた。秋葉原に本店があり関東一円に展開したが十四年前に倒産した。西台店はロケット食品館として七年前に再開したがすぐ閉店したらしい。

最後に高島平で降りた。かつて高島平団地は自殺の名所といふ有り難くない名前を付けられた。その後聞かなくなつた。行つてみて理由が判つた。廊下にはすべて鉄格子が付いてゐる。一階と二階が商店街といふ建物もありここでも昭和四十年代のコミュニティを感じた。次に国際興業の高島平操車所まで歩いた。街路の地図には載つてゐないのでバス停の行き先を目安に歩いた。なるほど高島平と西台の中間にあり浦和行きのバスが西台を経由する理由が判つた。かつて浦和駅西口から池袋駅北口までバスがあつた。急行と名乗るものの通過するのは三停留所くらいだつた。インターネットで調べると昭和47年12月の新番号化で池23を名乗る。昭和48年10月1日の路線再編成で高島平操車場~浦和駅西口に短縮され浦20になる。昭和60年10月1日の埼京線開業で戸田公園駅~浦和駅西口に短縮。昭和61年12月10日に西川口駅西口~浦和駅西口に短縮。平成2年5月16日に廃止された。当時の池袋駅北口からは池20西台駅、池21高島平駅、池22蕨操車場もあり、今なら池22は池23の折り返し扱ひである。(完)


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