四百九十五、上海訪問記(その二、冷戦後にどう親善を深めるか)


平成25年
十一月三日(日)「淞滬抗戦紀念館」
上海は親日の街だが一つ例外がある。それが淞滬抗戦紀念館である。入館の前に道路標識の英語がanti Japanになつてゐるのでまづ予感した。展示内容は事実を挙げたものだが、今までの共産党、魯迅などの展示がイギリスの阿片戦争から始まるのに対して、ここでは日本に焦点が絞られてゐる。
この変化は米ソの冷戦終結によるものである。中国共産党の本来の立場は西洋列強も日本も皆、帝国主義である。ところが冷戦終結後は米英仏蘭は正しくて日本は悪いといふ主張になつてしまつた。事情は日本も同じである。連合国が正しくて日本は悪いといふ丸山真男ばりの奇妙な主張が出て来た。双方がそのようなことを言つてゐるといつまで経つても日中の親善は深まらない。冷戦後にだう親善を深めるかを次に考へて行かう。

十一月四日(月)「亜流競争から亜州共通へ」
日中が国交を回復したとき、当時の田中角栄首相が日中には長い交流の歴史があると発言し、毛沢東がそれに賛成した。その後、日本はアメリカの属領化を急速に進め、中国は経済の資本主義化を進めた。日本はアメリカの属領のくせに偉さうに振る舞ふし、中国は医療費無料などを止めて資本主義になつたくせに共産党の独裁は続ける。互いに何の魅力もない国になつてしまつた。
日中両国はアメリカ亜流競争をやめて、アジア(亜州)の一員として交流すべきだ。さうすれば日中には欧米とは比べものにならないほど共通点が多いことに気付くであらう。

十一月五日(火)「仏教、儒教、漢文、漢詩、共産主義」
今から十五年ほど前だらうか墨田区の震災記念堂の前方に中国仏教会から贈られた梵鐘を見た。日本と中国の交流は、仏教徒同士、儒教研究者同士、古典漢文愛好者同士、共産主義研究者同士で進め、そして一般に広めるのがよい。
仏教について言へば、経典の研究特に日中の解釈の相違など共同で進めれば得るものは多い。儒教、古典漢文、漢詩、共産主義も同じである。他国からは国内で見へないことが見へて交流は利点が多い。

十一月七日(木)「小平路線」
小平の路線は中国があまりに西側諸国と経済格差が付いたため追い付かうといふもので、追い付いた後は社会主義経済に戻るはずである。そこを見失ふと、中国は経済が資本主義なのに体制は一党独裁だと中国を軽蔑する見方になる。かつての毛沢東の時代には日本は中国に対し尊敬の念があつた。現在日本の中国観が悪いのは根本には一時で終るはずの小平路線が永久に続くためである。
小平路線は中国が西側に追い付いたとき終了のはずだが西側はますます進歩するから永久に終了しない。しかし西側の発展は地球温暖化と引き換へである。アジアの共産主義国は伝統勢力、宗教勢力などと共同し西側の化石燃料消費を停止させるべきだ。停止の後は社会主義は西側と比べて劣つたものにはならない。

十一月九日(土)「1.共産主義者も私欲を超えられない、2.日露戦争以降の日本の堕落」
共産主義者が他の社会主義者と異なるのは、共産党宣言にあるように国際連帯つまり戦争の時に世界の労働者が団結することのみである。ところが実際には中ソや中越の軍事衝突が起きた。スターリンの一国社会主義とトロツキーの継続世界革命は前者のほうが楽だからスターリンが勝利した。
つまり共産主義者も私欲を超えられない。スターリンの権力掌握のやり方自体が私欲であつた。フルシチョフのスターリン批判が出たとき毛沢東が反発した理由は西側擦り寄り路線に反対と考へられなくもない。しかし本当の理由は独裁者批判に反発したのではないのか。金日成が息子に政権を譲つたのも似てゐる。
戦前にコミンテルンがドイツ、日本を主敵としたのはソ連と隣接して大きな軍事力を持つといふ自国の事情であり、これも共産主義とは無縁だつた。

満洲の軍閥張作霖は元は馬賊で田中義一に命を助けられた。その張が日本の言ふことを聞かなくなり勝手に北京を占領した。そして負けて逃げて帰つたので爆殺し、息子は蒋介石に寝返つた。だから日本が張一族に恩を仇で返す連中と不快感を持つのは理由がある。
日華事変を日本と中国の戦争だつたと考へると今後の日中親善に役立たない。最初は日本と蒋介石軍の闘ひだつた。しかし国共合作の後は日中の闘ひだから速やかに停戦する必要があつた。

日露戦争はロシア軍の満洲進駐に日本が脅威を感じたため起きた。だからロシア革命の後は日本軍が満洲に進駐する理由がない。シベリア出兵でソ連を勝手に敵国だと思ひ込んでの結果だつた。
日本は日露戦争の後は西洋列強の猿真似をして帝国主義に突入した。そのため(1)ソ連の非侵略性、(2)国共合作を見落とした。しかしソ連も自国のことのみを考へるようになりコミンテルンで米英仏蘭より日独が敵だといふ間違ひを犯した。共産主義は資本主義の不平衡に対抗するものである。だとすれば日独と米英仏蘭は同質である。

十一月十日(日)「長江」
淞滬抗戦紀念館に付属した展望台から眺めると長江が真下に河口の島が遙か遠くにかすかに見へた。対岸はほとんど見へなかつた。長江はすぐ近くなので展望台を降りたあとは川まで歩いた。途中に廃墟と化した休憩所があり、その前でサツクスホーンの六人くらいのバンドが練習をしてゐた。展望台で聞こえた「北国の春」などはここで演奏したのだつた。
来た記念に長江の水に手を浸した。この辺りは川幅が15Kmもある。川といふより湾に近いが、河口からは40Km上流である。水も土色だからやはり川である。
今回の旅行で印象に残つたことは文化大革命の文化財破壊である。その後修復はされたが文化を破壊してはいけない。新しい文化はほとんど永続できない。もちろん旧来の文化は特に権力を持つ側に都合のいいように堕落する。その補正は必要である。
文化大革命は決して毛沢東だけの思想ではない。マルクス主義そのものに入り込んでゐる。その原因はマルクスの時代は科学万能主義で科学で一切を解決できると思はれたことと、旧来の文化は既に資本主義が破壊したので重視する必要はないと思はれたためである。
実際に政治を行ふにはそれでは駄目で民族解放戦線は文化を重視しそれまでの考へを補正したものだつた。冷戦終結ののちは日中両国がアメリカ化を競ふようになつた。これこそ緩やかな文化破壊である。文化破壊を停止すれば日中は親善を取り戻せるに相違ない。(完)


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