四百九十五、上海訪問記(その一、親日の街上海)


平成25年
十月二十九日(火)「今年の夏休み」
先週金曜から昨日まで上海に行つた。夏休みの旅行である。なぜ今ごろ夏休みを取るのかといふと、今年の春に労組の兆民倶楽部で秩父事件の遺蹟を二泊くらいで訪問しようといふ話があつた。だから夏休みの予算を取つておいた。ところが秩父旅行が中止になつた。来年からは子供の学資で海外には行けなくなるかも知れない。行けるときに行つたほうがよいと妻がいふので訪問することにした。最後の海外旅行かも知れない。
もつとも掛かつた金額は成田空港までの運賃を含めても、横浜から大阪まで新幹線で往復し一泊四千円のホテルに三泊したのと同程度である。これでは国内の旅館は大変だし、海外に行つて西洋かぶれになつた人とそれを付け狙ふあやしげな丸山真男主義マスコミのため国内が大変なことになる。

我が家と上海は縁がある。父は戦中に大東亜省(旧拓務省、終戦後は外務省、厚生省などに吸収)の留学生として北京大学で学んだ。父以外の留学生は戦後外務省に移籍し一人は上海総領事になつた。父に質問したところ留学生は外務省中級試験の最上位ださうだ。これまで上海に行かなかつたのは上海は経済都市といふ印象が強いためだつた。

十月三十日(水)「北京とは異なる都市上海」
二十年前会社に私より二つくらい若い中国人が入社した。新婚旅行に上海に行つたらまるで外国みたいで何を話してゐるか判らなかつたさうだ。つまり上海は北京とは異なる。しかも魯迅、内山書店など親日的な都市である。
最初の日は夕方上海に到着した。リニアモータは時速431キロ所要時間7分といふ触れ込みだがこの速度に達するのは10秒ほどでしかも時間帯によつては300キロしか出さないさうだ。私が乗つたときは300キロで、しかも8分だつたからわざわざ431キロを出す必要はないのだらう。
ホテルは最初判らなかつた。カウンタに誰もゐないしどこかの事務所みたいである。一旦ビルを出て番地を確認して再度入つた。カウンタの中にはミネラルウォータの10リットルくらい入る容器が十個くらいほこりまみれで放置してあつた。カウンタの後の部屋でノートパソコンを扱ふ人に話しかけたところチェックインの手続きをしてくれた。 一階は粗末だが五階以上の客室はきれいだつた。布団、敷布、毛布も清潔である。洗面所の蛇口がぐらぐらして何時壊れても不思議ではなかつた。しかし使ふ分には問題なかつた。

十月三十一日(木)「一日目」
空港からホテルに着いたときはまだ明るかつた。三十分ほど休んで乍浦路美食街を往復するうち暗くなつた。ここは庶民的な食堂街だ。酒屋で紹興酒を買つてホテルで二合飲んだ。機内食で空腹ではなかつたが疲れたためか酔ひが回つてそのまま寝た。

十一月一日(金)「二日目」
二日目は地下鉄で虹口といふ戦前は共同租界だつた地域に行つた。かつて日本領事館があつたことから日本租界と呼ばれ一番多いときは十万人の日本人が住んださうだ。まづ文化名人街を歩いた。当時の街並みを再現し所縁の人たちの像と説明がある。
内山書店記念館(写真その一その二へ)、魯迅紀念館(写真その一その二へ)も親日の展示だつた。魯迅紀念館は隣が受付で暫く待つと管理人が鍵を開けて館内を案内してくれる。魯迅の墓は公園が工事中のため行けなかつた。毛沢東の筆で「魯迅先生之墓」と書かれてゐる。 (日本で先生といふ表現は要注意である。本来は「さん」または「様」に当る。ところが日本ではまづ国会議員、医師、弁護士、教師の敬称になり、次に敬称が職種を持ち上げる効果がある。先生といふ敬称を廃止するか、中国のように相手への一般敬称にしない限り日本の未来はない。その証拠はシロアリ民主党といふ醜い連中が出現した。)
次に地下鉄で虹橋へ行つた。日本人の駐在員が多数住み、日本料理や日本人向けの店がたくさんある。ショッピングセンターにも寿司やうどんなど中国人向けの日本料理店が幾つもあった。中国人が反日という情報は日本の偏向マスコミが広げたもので、まったくの嘘だと判る。
私は街中でも地下鉄の車内でも日本語の旅行書を持つて歩いた。かばんが小さくて入らないためである。しかし嫌な思ひをしたことは一回もなかつた。そればかりか地下鉄で女子中学生の二人が学校のことを日本語で雑談している。これが現地のごく普通の光景である。
しかし問題点もある。この辺りは高い塀に囲まれ入口には警備員がゐて塀の上に5つほど電線を巡らせた中にマンションが建つてゐる。日本で言へば決して高級ではないごく普通のマンションである。居住者は日本人はがりではなくおそらく日本人は2割程度ではないかと思ふ。数字には何の根拠もなく推測である。このようなところに住めば中国人が反感を持つのも無理はない。
地下鉄でホテルに戻り小休止の後に外灘と呼ばれる地域を歩いた。租界時代の洋館が並ぶ。道路にはトロリーバスの架線がたくさんあるが衰退を感じた。本数が少ないためである。あと天井にポール台の跡のあるバスを一両見た。これは事実でトロリーバスはだいぶバス化されたらしい。あと路面電車と同じ一本だけの架線もあつた。道路に線路はないから何が走るか不明である。
日没を待つて街灯で照明された洋館群を見た。多数の人が川沿ひの講演に集まり、洋館や対岸の浦東の高層ビルを写真に収めてゐた。

十一月二日(土)「三日目」
三日目は歩いて豫園商城、豫園、上海老街に行つた。豫園は庭園で昔の建屋が多数ある。伝統服を着た若い女性が多数ゐて、それぞれ「政府の経営するお茶の店です」「入園料に飲茶が含まれてゐます」などと日本語で話し掛けて来る。その店の前まで行き中を見ると無料でお茶を飲ませてお茶を買はせる店だと判つたから「時間がない」と入らなかつた。勿論飲んで買はなくてもよいのだが、さういふことはしたくはない。
豫園商城と上海老街は伝統の中国風建物の並ぶ商店街でここは観光客で一杯だつた。かういふ街は歩くだけでも楽しい。
そのまま淮海中路まで歩いた。東京の銀座通りみたいなもので高級な西洋風ショッピングビルが並ぶ。三つくらい試しに入つたがほとんど客がゐなかつた。新天地といふショッピングモールも同じである。日本でいへばお台場のショッピング街みたいな感じである。私はかういふところは好きではない。中国人観光客も同じと見へてほとんど人がゐない。
新天地の一角に中国共産党第一次全国大会会址紀念館があり入館した。国民への教育施設といふことで無料である。しかし入口に行くと切符売り場を指で指す。切符を受け取るがお金は要らない。切符の半券を入口で切つてもらつて入館した。毛沢東など13名が机を囲み会議をする人形が飾られてゐる。
暫く歩いて周恩来が一九四六年から四七年に掛けて蒋介石と交渉するために滞在した建物を見学した。
予定では南京西路、南京東路を歩き戻る予定だつた。しかし西洋的なショッピング街を歩いても面白くないし、翌日行く予定の淞滬抗戦紀念館が月曜休館と判つた。急遽地下鉄に乗つた。同館については今後の日中親善にも関るので次章でまとめたい。
この日、乗客の読む新聞の一面先頭に安倍放言云々といふ記事かあつた。別の人の新聞では三面あたりに同じような記事があつた。だからと言つて日本語の本を持つ私への態度が悪いことは一回もなかつた。
地下鉄で帰ると既に暗くなつてゐた。七浦路服装市場といふ路店街を見てホテルに戻つた。

十一月二日(土)その二「四日目」
今日は帰国の日である。しかし空港には午後三時十分までに行けばよい。まづ地下鉄で静安寺に行つた。三国志の時代に建てられた真言宗の寺院で空海が遣唐使として訪れた。文化大革命のときに破壊され僧侶は還俗した。寺はプラスチック工場になつた。その後再建され現在の姿になつた。
寺は新しいが伝統建築が中央、左右、手前に生前と並び多数の篤信者が礼拝する。ただし僧侶にどことなく俗的な印象を受けた。まもなく法会が始まつた。お経は節を付け西洋音楽でいふドレミソラである。ファとシは半音だから不自然でこれを除くのは当然だが除いた後も不自然ではないのか。元の音程を無理やり西洋音階に当てはめ二つ除いただけではないか。そんな疑問を持つた。
僧侶だけではなく信徒も堂内の机の前に立ち40cm四方の座布団で三拝などを行ひ読経を続ける。三拝は一回ごとに頭、胸で合唱し頭を座布団に付けるのが正式のようだ。私は上座部仏教式に座つたまま三回行つた。多数の信徒の熱心な礼拝を見るうち先ほど族的に感じたのは間違ひだといふ気もした。

次に地下鉄で龍華寺に行つた。三国志の時代に呉の孫権により創建された禅宗寺院で建物が縦に配置されてゐる。四天王の像(写真その一その二へ)を興味深く観た。
最後に地下鉄で空港の途中の浦東に行つた。湿地帯だつたところに九十年以降高層ビル群を建設した地区である。どこの駅で降りてもよかつたので世紀大道駅で降りて周りを歩いた。日本語学校の広告の看板があつた。日本食などの看板もある。ここでも中国人は決して反日ではないことが判る。

十一月二日(土)その三「帰国後」
今回は昨年大連に行つたときの人民元の余りを使つた。両替の手間を省くため空港で出国手続き後にお土産を買つた。残り少なくなつた外貨を使い切つた。二日間休んだから職場にもお土産を買つた。チョコレートかココアのアメであらう。そう思つて買つた。妻と子どもにも一粒づつ家に持つて帰つた。翌日もまだ余つてゐるから再度一粒づつ持つて帰つた。ところが誰も喜ばない。
翌日会社で一粒食べてみた。コーヒー味ではなく酸つぱい。話梅糖と書かれてゐる。空港の免税部分でこんなまずいものを販売してよいのか。さう思つた。家に帰ると三粒が増へてゐる。といふことは絶対にないが三粒そのまま残つてゐる。購入者責任でもう一粒食べるとそんなにまずくはない。舌が慣れたのであらう。
西洋のお菓子も同じである。日本人の口には合はないが何回も食べるうちに慣れる。それなのに西洋のものは慣れてゐないだけ、中国のものは粗悪品と感じる。ここに日本人のプラザ合意以降の西洋化の悪弊がある。


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