四百三十九、神田小川町で抗議行動


平成25年
六月二十八日(金)「抗議行動」
或る高年組合員の雇用延長を会社が更新せず解雇した。そのため昨日は私も半日休暇を取り路上で抗議行動を行つた。道路の向ひを見るとゆで太郎がある。それで昨年のことを思ひ出した。昨年の丁度今日の夜に『非正規労働者の「労働者性」と、労働安全衛生を考える』が池の端の上野区民館で開かれた。我々の労組と馴染みの深い各種のIさんが司会なので私も参加した。会社が終はつてからでは間に合はないので、1日休暇を取り午前は神田錦町近辺に行つた。そして昼食は向ひのゆで太郎で食べたのだつた。

六月三十日(日)「ゆで太郎、その一」
昨年妻がゆで太郎のかきあげ、海老天、大盛り、コロツケの無料券が2枚づつ付いたものをもらつてきた。六月三十日の期限があるのでそれまでに全部使はうと頑張つたところその店でももらつた。そこで新宿、新橋、池袋、渋谷、代々木、鶴見、小川町、築地に行つた。昨年六月三十日は労組のオルグ塾で会場は東京海員会館、勝どき駅が近いのに築地店で昼食を食べようとわざわざ築地で降りてあとは歩くくらいゆで太郎の各店に入り、その数は十四回に達した。
そのときの結論は、代々木店はポピユラー音楽を流してソバ屋に合はない、築地店は紙ナプキンがない、渋谷店は最初は店員の感じがよくがんばつてゐる印象を受けたが後にはそれほどではなくなりさうすると店内が狭く会談を降りなくてはならない事が欠点になる。店により変動があるやうだつた。

七月一日(月)「ゆで太郎、その二」
十一月にも無料券をもらつた。日曜に明治神宮外苑のいちようまつりを見たあと代々木まで歩いてゆで太郎に行つたり今回もがんばつた。しかし今回は十二月末までに八回行くに留まつた。
私がこれほど応援するのはソバ屋といふ日本伝統のチエーン店を展開するからだが、一方でポピユラーを流す店があり新たに始めた店もあるなど日本の伝統に合つてはゐない。また周囲の個人経営店を圧迫することになる。だからこれ以降そば太郎には半年間で一回しか行つてゐない。

七月三日(水)「高年法」
高年齢者雇用安定法の改正で、六十歳を過ぎた労働者の雇用が義務付けられた。ところが今回の場合、毎年ごとの更新で職種と労働条件の大幅引き下げを言つて来たため何回か団体交渉するうち契約期間の時間切れだといつて一方的に解雇してきた。
高年法自体がザル法で労使交渉に負ふ部分が多過ぎる。つまり大企業と中小企業で差があり過ぎる。だからといつて中小労働者は解雇されてもよいことには絶対にならない。この争議は高年法の問題点をあぶり出すことになりさうである。

七月五日(土)「路面電車のある街」
以前は都電37系統が中央通りを南下し神田の旅籠町で分岐し、松住町を経て淡路町で靖国通りに合流し、次の小川町の三叉路を本郷通りに分岐し美土代町、神田橋へと続いた。小川町の三叉路を向うから行先窓と系統番号窓の二つが運転台の上部にある珍しい電車が来たが、昭和三十九年に来なくなつた。
小学校五年の臨海学校は岩井海岸で、貸切電車は旅籠町で分岐し小川町の三叉路を少し直進し、車内で運転手と車掌が交代し折り返して両国駅に着いた。岩井海岸までの途中で蒸気機関車に付け替へ、鋸山のトンネルは煙が車内に大量に入つて大騒ぎになつた。昭和四十二年の暮に37系統と、銀座線と呼ばれた1系統が廃止になつた。このときが第一次都電廃止で、その後第八次まで五年間に亘り廃止され荒川線だけになつた。
社会情勢を考へると昭和三十年後半までが一番よかつた。所得倍増計画の影響の出る前である。昭和四十二年に路面電車の廃止が決定された時点でもはや日本経済は成長し過ぎた。しかし本当に日本が駄目になつたのは昭和四十八年からの貿易黒字である。だからプラザ合意で反動が起き、それ以降はバブルとバブル崩壊と停滞で大変なことになつた。
社民党の「強い国よりやさしい社会」は如何にも偽善言辞だし実効を伴はない。「金満経済より昭和四十年の社会」と変へたほうがよい。他党から「貧乏でよいのか」といはれたら「外国は大都市に路面電車がある。東京から路面電車が消へるのは昭和四十二年だ」と答へればよい。路面電車は有機的だが十両編成の電車は無機的である。路面電車のある街は有機的だが、自動車しか走らない街は無機的である。かういふ電車で通勤しかういふ街に住むと人間まで無機的になる。(完)


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