三百九十四(乙)、小倉貞男著「ヴェトナム 歴史の旅」は良書か悪書か
平成25年
四月十日(水)「出だしが重要」
小倉貞男氏は小倉和夫氏とは無関係である。偶然この本を図書館で借りて読み始めたが、実に問題点のある本だつた。本や講演は出だしが大切である。ところがこの本は最初の書き出しが、
ヴィエトナム(VIET NAM)は漢字で書くと、越南である。この国の名称は、ヴェトナム人がもっとも嫌った言葉だった。
ここからして間違つてゐる。もし嫌つたのだつたら国名を変へるはずだ。変へないといふことは多少は嫌つた人がゐたとしても「もっとも嫌った」といふほど大げさなものではない。つまりだうでもよい話である。この種の話を最初から十二ページに亘り延々と続ける。
一八〇二年、グエン(阮)氏の勢力がフランス人の援助を受けて全土を統一し(以下略)。
ヴェトナム共産党は、この阮朝がもっとも嫌いである。なぜなら、阮勢力はフランス陣の援助を頼み統一したが(以下略)
ヴェトナム共産党の最も嫌つたのは宗主国としてのフランスであり、軍事介入するアメリカである。ベトナム戦争終結の後は変化するが、一昔前のアメリカ、二昔前のフランスを差し置いて三昔前の阮朝をベトナム共産党が最も嫌ひだといふのは突拍子がないし、だうでもよい話である。
四月十二日(金)「ヴェトナムの四季」
延々と続く12ページは「アジア・モンスーンの十字路」といふ大見出しが付けられ、一昨日紹介した内容が書かれる。その後「ヴェトナムの四季」といふ小見出しが付き、そこから先は
「ヴェトナムは暑いぞ」と言われて、行ってみたら、とんでもない、朝夕は涼しさを通り越して、寒いくらい、夜などは寒くて、厚い掛けぶとんが恋しくなったという話を聞く。「いまは冬だ、寒いから気をつけろ」などと言われて行くと、暑くて、乾いている、これは一体何だ、と思う。
ベトナムは南北に長いから北のハノイと南のサイゴン(現、ホーチミン市)では気候が異なる。実に簡単な話だ。なぜ長々と駄文を書くのか。雨期についても
毎日降る。だが、日本のように梅雨があって、毎日じとじとと降るのではなく、日中に一度、シャワーのようにドカーンと降って、あとは晴天である。
「じとじと」「ドカーン」と品性に欠ける言葉だけが目立つ。これが平時ならまだ我慢もできる。小倉氏が行つたのは戦争の只中で毎日たくさんの人が殺されたときである。
ヴェトナム戦争中は、雨が降ると、一切のものが停止し、人間もシクロ(人力車)も何も動かない。どうせ晴れるのだ、(以下略)。戦闘も一休みだ。あまりにもすごい雨なので、動けないのだ。例外として、雨のなかを歩いているのは、アメリカ人、日本人、韓国人だけだった。みなせっかちだった。(以下略)。
いまは五〇ccのオートバイが流行っていて、豪雨のなかを薄っぺらなピンク、ブルー、黄色のビニール雨合羽を着て、水しぶきを上げて走っている。しゃかしゃかしていたアメリカ人、日本人の習慣がサイゴンでも定着してしまったのか。お株を奪われたという感じはしないが、ただ、あせりを見せないヴェトナム人の天候に柔軟な暮らし方は消えてしまった、と思う。なぜ、そんなに先を急ぐんですか。
私は今までこれほどみにくい文章を見たことがない。
四月十三日(土)「新聞記者のおいしい就職先」
奥付のページの小倉氏の略歴を見よう。
1933年東京生まれ。○○大学経済学部卒業。1955年読売新聞社入社。社会部、外報部、論説委員、調査研究本部主任研究員(アジア)、編集委員、サイゴン特派員をはじめ、インドシナの取材を続ける。都留文科大学比較文化学科教授を経て、現在、中部大学国際関係学部教授。
○○は或る私立大学だが大学の宣伝にならないよう○○にした。このような駄文を書く人が都留文科大と中部大の教授。私は二月一日の朝日新聞に載つた広告を思ひ出した。
私はコンピユータ専門学校の教師を三年間務めたが学校に補助金はない。私学共済といふ健康保険と年金の両方の機能を持つ機構に対して都道府県から確か0.1%の補助があつた。私立の小中高大すべては学校への補助金のほかにこの分ももらつた。消費税増税は撤回し代はりに聞いたこともない大学の補助金は廃止すべきだ。税金の無駄である。
四月十四日(日)「まえがきとあとがきの怪」
この本は「アジア・モンスーンの十字路」といふ最初の章に三つの節がある。その次に「北部」「中部」「南部」の三つの章があり、それぞれ九節、二節、五節が所属し、この部分にだけ通し番号がある。つまり「アジア・モンスーンの十字路」は普通の本でいふ前書きである。しかし前書きでは注目されないから本文に見せかけたのだつた。このようにした理由は、ベトナム戦争を軽いものにしよう、ベトナムをアメリカ側に見せかけようとするためである。
この本の出版社は朝日新聞社、著者は読売新聞におそらく定年まで勤めた後で大学教授に転職した小倉貞男氏である。数十年ぶりに主筆を復活して英語公用語の船橋洋一を任命した朝日新聞、国売り新聞と呼んだほうが適切な読売新聞。これでまえがきの怪が明らかになつた。そのことはあとがきを読むとよりはつきり判る。あとがきは最後に読むものだから「アジア・モンスーンの十字路」のように本文に見せかける細工は要らない。中国がベトナムを攻撃したとき小倉氏が北部の村に入ると
おばあさんに、いきなり、「タオじゃろ、出ていけ」ととびかかられたことがある。ヴェトナム人は「中国」を呼ぶとき、たてまえでは、チーュンクォック、「中国」というが、くだけた会話になると、タオの発音に近い、タゥ、という。
ベトナムと中国の関係を悪化させたいアメリカの立場を代弁してゐる。あるいはホー・チ・ミンが亡くなりレ・ズアンが共産党書記長となつたとき
かれの主張は、ホー・チ・ミンの「中ソとの協調路線」とはまったく変わっていた。(中略)レ・ズアンは、米国と手をにぎる中国も「主たる敵」であると断定した。怒った中国は(中略)一九七九年初頭、ヴェトナムに大挙侵攻し、社会主義国同士の戦争となったのである。
この主張は正しくない。中国がアメリカに接近してもベトナム戦争には影響を与へてゐない。中ソ対立は中国の文化大革命の暗部が報道されるようになる前は、日本では中国を応援する声のほうが強かつた。スターリンの暗い部分はトロツキーにより或いはフルシチヨフによつて世界に知らされた。しかしフルシチヨフが解任された後のソ連はスターリンの暗黒部分を解決しようとせずそれでゐて否定もしなかつた。原発事故を解決せず事故の否定もしないようなものだ。これではソ連はいつかは崩壊する。事実崩壊した。私が想像するにホー・チ・ミンはまもなく終はるベトナム戦争を重視しソ連の暗黒部に目をつぶつた。中国とベトナムの争ひはポルポトが原因である。スターリンの百倍とも千倍とも残酷なポルポトをベトナムが倒した。本来は世界から賞賛されるべきだが、ポルポトと関係の深かつた中国はベトナムに侵攻し、世界はベトナムを経済封鎖した。
この本は本文だけがまともで「アジア・モンスーンの十字路」と「あとがき」はひどい内容である。本文がまともな理由はあとがきに書かれてゐた。
この本の参考資料は、ほとんどがハノイのTHE GIOI(テジョイ=世界)出版社、ハノイ外文社発行のもので、最近は比較的入手しやすくなった。
しかしその直後に次の文が続く。
インドシナは、わたしにとって、ともに生きてきた地域である。そこに生きる人たちの顔、顔、顔。それらの人たちは、いつもわたしのなかにある。おーい、元気かい。食べているかい。暑いなあ。
「アジア・モンスーンの十字路」と「あとがき」はTHE GIOI(テジョイ=世界)出版社、ハノイ外文社から引用できないので途端に質が落ちる。しかしこれがベトナム戦争のときにベトナムに滞在した人間の書く文章だらうか。できるだけ軽く書いて米国の犯罪行為を隠したいのかも知れない。(完)
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