三百八十六、自民党教育再生実行本部は売国奴、国賊だ


平成25年
三月二十四日(日)「一部マスコミ」
自民党の教育再生実行本部が、大学の受験にTOEFLの点数を受験資格にするといふ案を作つた。早速、偏向が酷くもはや新聞とは呼べない産経が飛びついた。本日、ときどき低質な記事の載る東京新聞が報道した。
こんなことを実施したら大変なことになる。まづ日本の大学はアメリカの下請けになる。TOEFLはアメリカの団体が実施するからである。即ち売国奴である。次に日本の教育は非効率になる。即ち国賊である。売国奴と国賊のうちの片方だけでも重罪なのに両方に該当するとは呆れる。第二の船橋洋一事件である。

三月二十五日(月)「TOEFLを第二の偏差値にしてはいけない」
各大学にTOEFLの最低点を公表させ、それ以上を受験資格にするのださうだ。各大学は見栄を張つて高い点数を設定するだらう。高い点数を維持するには、他の教科が低くても合格にするしかない。さうしないと学生数を確保できないからだ。TOEFLは第二の偏差値となる。
日本の教育は只でさへ偏差値詐欺男や詐欺女を生むのに、この先、第二偏差値詐欺男や第二偏差値詐欺女が出てくる。日本の行く手には亡国しか見へない。

三月二十六日(火)「日本語と英語では読む速度が全然異なる」
日本語と英語では読む速度がまつたく異なる。だから英語で授業をしたら、非効率も甚だしい。昭和四〇年代に日本を訪問したアジアの首脳が、日本では日本語で授業をしてゐると感銘を受けて帰国した。アジアで英語やフランス語やオランダ語が幅を利かせるのは植民地だつたからだ。
独立後に母国語を取り戻せた国はよい。スリランカはシンハリ族とタミール族の争ひになつた。イギリスがそれまでの統治機構を破壊したためである。イスラエルとパレスチナの争ひもイギリスが悪い。
それらの世界情勢を考へずに英語、英語と叫ぶ連中は帝国主義者であり、米英帝国主義の手先であり、国賊である。

三月二十八日(木)「英語を使へる人は国内に有り余つてゐる」
今から二〇数年前に日本の英語はひどいものだつた。これは私が言つたのではなくアメリカの取引先企業の副社長が来日して、歓迎の宴会(といつても出席者は七名くらいだが)のときにアメリカでさういはれて来日したと語つた。だからあの当時に英語を始めることは意味があつた。しかし今は英語を使へる人が国内に有り余つてゐる。私の勤務する会社でも、従業員三〇〇名のうち、二〇年前に英語を使へる人は私以外は一人しかゐなかつた。今では一〇人はゐる。しかし英語を仕事に使ふ人は一人もゐない。私は三年ほど前までは海外と連絡することがあつた。しかしその海外製ソフトを使ふ日本企業が新しいマシンと入れ替へソフトの使用も終了してからは使ふ機会がなくなつた。
国内に英語を使ふ人が有り余つてゐるのに英語、英語と叫ぶ連中は頭が悪すぎる。たしかに外国企業から見ると、日本人で英語が使へる人に優秀な人が少ないように見へる。しかしそれは英語をやりすぎて頭が悪くなつたためで、英語力の不足が原因ではない。外資系が優秀な人を雇ふには、日本の終身雇用を崩壊させるしかない。何回もいふが中小はもともと景気が悪くなれば嫌がらせや退職勧奨が始まる。私の勤める会社なんかは私と同じ20年前に入社した人はほとんど残つてゐない。大手に下請け禁止と派遣受け入れ禁止を法律で決めればよい。大手も景気の波を受けるから流動が始まる。

三月二十九日(金)「無能な人間ほど英語、英語と叫ぶ」
未来を予測できない人間は次に何をやつていいかわからない。だから英語、英語と叫ぶ。
日本では古来、漢字は取り入れても発音は取り入れなかつた。日本語と中国語ではアクセントの方法がまつたく異なるためである。日本語と英語も同じである。日本語は母音中心、英語は子音中心。膨大な時間をかければ誰でも聞き取れるようになるが時間の無駄である。だから日本では読解と作文こそ重視すべきだ。

三月三十日(土)「個々の得手不得手と分業を考へぬ」
エリート意識に基づく分業は絶対反対である。だからすべての人が色々な職種を経験した上で自分に合つた職業に付くのが理想である。実は世界の殆んどの国は転職自由だからこのようになつてゐる。日本だけが異常である。
外国語が得意な人といふのがゐる。英語だと判らないがそれ以外の言語だと若いのにその言語に堪能といふ人がゐる。だから英語も含めて外国語はその分野が得意な人に任せるべきだ。ところが英語を第二公用語だとかTOEFLだとか叫ぶ人は分業を認めないらしい。さういふ人は自分の食べるものから始まつて工業製品まで生産し、人糞の処理までやる。外国語を自分でやるといふのはさういふことだ。
明日から自民党教育再生実行本部の連中が人糞の処理をやるかだうか見ようではないか。(完)


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