三百六十九、西洋のごり押しを許すな、AAAはオリンピツクを分裂開催すべきだ
平成25年
二月十五日(金)「レスリング廃止の危機」
オリンピツクからレスリングが無くなるさうだ。IOCの理事会が二十五の中核競技を決めた。そこからレスリングが除外された。IOCは西洋が主導権を握つてゐる。レスリングは日本が勝ちすぎるため外したといふ噂もある。中核競技は陸上競技、ボート、バドミントン、バスケットボール、ボクシング、カヌー、自転車、馬術、フェンシング、サッカー、体操、重量挙げ、ハンドボール、ホッケー、柔道、水泳、近代五種、テコンドー、テニス、卓球、射撃、アーチェリー、トライアスロン、セーリング、バレーボールである。
なぜこんな競技がといふものが八つはある。一所懸命に練習する選手に失礼だからどれとはいへない。しかしフェンシングについていへば日本の剣道やフェンシングや世界中の色々な剣士が出場して一位を決めればよい。ルールはもし真剣だつたとして勝つであらうほうが勝ち。例へば竹刀で欧州選手の胴を切つた。このとき相手は反撃できないだらうといふことになれば剣道剣士の勝ち。欧州選手が避雷針の先みたいな物を突きまくつてアジア選手が刺されればフエンシング剣士の勝ち。
私の息子は高校の卓球部だが卓球が廃止になるかも知れないといふ情報があつたさうだ。といつても息子は高校県大会レベルなのでオリンピツクに出る訳ではないが。私が息子の卓球を応援するのはカツトマンといふ珍しい戦形だからだ。卓球の花形はドライブ型と速攻型だから珍しい戦形を選ぶところは偉い。同じように西洋から見て珍しい競技も貴重である。
二月十七日(日)「アジアアフリカ南米はオリンピツクを分裂させよう」
オリンピツクは西洋中心だからよくない(二百十九、オリンピツクとノーベル賞は廃止する時期だへ)。アジアアフリカ中南米はオリンピツクを分裂させ独自に開くべきだ。西欧の王室は冬季オリンピツクを好むさうだ。冬季オリンピツクは非先進国の参加が少ない。かつての西欧の仲間うちのサロンに丁度よいのだらう。オリンピツクの分裂は西欧のためでもある。お互いが幸福なのだから分かれたほうがよい。アメリカがどちらに付くか見ものである。
二月十八日(月)「アジアアフリカ南米は二年に一回開催しよう」
オリンピツクが四年に一回といふのは感覚が長すぎる。スポーツ科学の発達しなかつた時代の話である。選手が少なかつた時代の話である。くだらないアトラクシヨンや偉さうな連中の挨拶は廃止し、質素に毎年開催すべきだ。取りあへずは二年に一回開催するとよい。
二月十九日(火)「メダルは取り合へず入賞者全員に」
メダルは廃止すべきだ。普通の大会は「第何回第何位」といふ形で記録に残る。ところが「何々オリンピツク金メダル」となると特権意識を持つようになる。内柴の事件も今回の体罰暴力パワハラ騒ぎもメダルを貰つた人が特権化したことが原因である。
メダルは将来は廃止すべきだ。しかし急に廃止すると欧州側のくだらぬオリンピツクに負けるから、暫定的に十年間は入賞者全員にメダルを授与する。金、銀、胴の次に真鋳や酸化鉄など錆びない材質を使ふ。そして十年後に廃止すべきだ。
二月二十日(水)「アマチユア精神と反スポーツ科学の追求」
かつてのオリンピツクはアマチユア精神を追求しメダル剥奪者も出た。ところが今は家畜運動会と代はらなくなつた。走るのが速い動物、重いものを持ち上げるのが得意な家畜、泳ぐのが得意な畜生が金メダルを取るといふ実にくだらない大会になつた。勿論それ以上にくだらないのが開会式のアトラクシヨンである。
アジアアフリカ南米オリンピツクは、アマチユア精神を追求すべきだ。そればかりではない。スポーツ科学と称するくだらぬ理論は禁止すべきだ。人間は科学の奴隷ではない。
二月二十一日(木)「地域の特徴を生かした練習」
十年ほど前だらうか、水泳の日本代表に選ばれなかつた女子選手が、感想を聞かれて「アンビリーバブル」と答へたといふ新聞記事を読んだことがある。その選手はアメリカでずつと練習をしてゐた。日本の新聞記者もそれほど英語が得意な訳ではなく日本語で取材をしたことがこの記事から判る。英語で取材をすれば「アンビリーバブル」だけ大げさに記事にする訳がない。日本語で質問されて「アンビリーバブル」と答へる選手は日本代表として不適格である。
各国の選手はその国の方法で練習をして、その国の食事を取り、その国の伝統の生活をして出場すべきだ。それらを点数化して加味してもよい。選手の家畜化を防ぐにはかつてはアマチユア精神であつた。今でもそれを復活させるとともにスポーツ科学に毒されない練習をすべきだ。(完)
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