二百十九、オリンピツクとノーベル賞は廃止する時期だ
平成二十三年
十二月七日(水)「内柴逮捕」
オリンピツクで金メダルを二回獲得した柔道の内柴が逮捕された。驚く人がゐる一方で、「やはり」と思つた人もゐてその理由は「女癖が良くなかつた」。
金メダルを二個獲れば有頂天になる。周りも意見できない。これまでオリンピツクで問題になる人は出なかつた。一方でノーベル賞を受賞した人のなかには佐藤栄作や大江建三郎のように疑問の人もゐる。オリンピツクとノーベル賞は廃止する時期だ。
十二月八日(木)「メダルは廃止せよ」
まづオリンピツクのメダルはよくない。一位から三位までと四位以下を断絶する。四位も五位も立派な成績だ。それなのにメダルがないから見向きもされない。メダルといふくだらぬものを作るからドーピングも後を絶たない。メダル獲得者の慢心も起こる。
先祖伝来の食事を取り先祖伝来の生活をして練習を行ひ、世界から集まり競技をするなら意味もある。
最近は高校生までたんぱく質系飲料を飲み筋肉増強する学校があるさうだ。ドーピングとどこが違ふのか。しかもカネのある学校が有利だ。
オリンピツクといふくだらぬ大会があるから高校にまで悪影響を及ぼす。
十二月二五日(日)「順位発表もしないほうがよい」
かつてはアマチユアを追求するところにオリンピックの意義もあつたが、今はまつたく理想がない。オリンピツツクの出場選手を見てもまつたく偉いとは思はない。名誉欲の塊にしか見へない。実際には大変な練習をしてゐるにしてもさう思はれてしまふ。
それを防ぐにはメダルを無くすだけでも効果はあるが、更には成績だけ発表して氏名は公表しないことだ。それでも練習を一所懸命に行ふ。その姿勢に世界は拍手を送る。
十二月二六日(月)「ノーベル賞は廃止すべきだ」
学問の研究は世のために行ふべきだ。ノーベル賞はそれを名誉欲に変へる。経済学賞はまつたく世の中の役に立つてゐない。
平和賞と文学賞は西洋文明のアジア、アフリカへの押し付けである。しかも文学賞は原文は見てはゐまい。だから大江健三郎なんかが受賞する。平和賞の佐藤栄作も同じだ。そろそろアジアからも、といふときに西洋の基準に適つた。だから当事国の日本から見れば違和感だらけである。
アウンサンスーチーやダライラマは複雑である。小さく考へれば時の権力に対抗するのだから偉い。大きく考へれば西洋がアジアにやり方を押し付ける新帝国主義に使はれる。ミヤンマーのイギリスからの独立を無にするし、チベツトの農奴解放を無にする。
政治の対立では、一方だけに受賞させず事態が解消に向つたとき双方に与へるべきだ。ベトナム戦争が解消に向つたときに、アメリカのキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドク・トに与へたのは時機に適つてゐた。尤もこのときまだ平和が訪れてゐないと受賞を辞退したレ・ドク・トが一番偉大だつた。
十二月二七日(火)「西洋文明の侵略を止める好機だ」
ミヤンマーがやつと雪解けを迎へた。チベツトはダライラマが遷化するまで解決しないだらう。ミヤンマーとチベツトが長引いたのは反政府側にノーベル平和賞を与へたからだ。これで政府側と反政府側の双方が引けなくなつた。
地球温暖化で西洋文明の誤りは明らかになつた。今こそ西洋を含めて西洋文明の誤りを検証しよう。まづオリンピツクとノーベル賞の堕した権威を批判すべきだ。(完)
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