三千三百三十 短編物語(AI三人、再度役割を変へて戒定慧を語る)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
十月十一日(日)
はじめに
前々回及び前回の講演会に続き、三人が再度、役割を入れ替へて講演を行った。

第一章 戒
戒は、石原莞爾が講演した。自分が陸軍時代に滞在した中国大陸では、比丘は具足戒を所持した。これは、ベトナムや中国のチベットや韓国も同じだ。但し韓国は、日本の植民地時代に僧侶の結婚と肉食を推奨し、そのため独立後は、独身の曹渓宗と、妻帯の太古宗に分かれた。以上は大乗国で、部派時代の四分律などを所持する。
南伝仏法国は、戒律仏法と呼ばれることもあり、勿論きちんと戒律を守る。
一番問題になるのが、お金の所持だ。大乗国は、男女問題には厳格だが、お金は寛容で、そのため商業化が問題になってゐる。南伝国は、カピヤと云ふ信者が同行し、お金を扱ふ。最近は電子化されたので、比丘がカードを近付け単独で公共交通に乗ったり飲食物を購入することが、行はれる。
本来禁止すべきは、手で持つことの禁止ではなく、所有権の禁止である。とは云へ、そこまで釈尊時代の戒律を守る努力こそ尊い。
一方、日本のやうに戒律が薩長に壊された国では、比丘を廃止し信徒団体にする方法がよい。田中智学先生は、先見の明があった。
以上で、石原莞爾の講演が終はった。

第二章 定
禅定は、永禅和尚が講演した。密教系には、阿字観と云ふ止観法がある。天台系と同じで、止観をしながら禅定だけではなく智慧を得る方法だ。
ここで重要なのは、止観を行ふことだ。止観をしない排他団体は、仏法ではない。まづ日本の宗派は排他団体だし、鎌倉以降の排他団体は止観をしない。
その根源は、性格が悪くてもよいと云ふことだ。非常時には、それがいいだらう。砲弾や銃弾がやたらと飛び交ふ中で、性格をよくしませうと提唱すべきではない。しかし平時に戻ったのに、同じことを続ける人たちには困ったものだ。
以上で、永禅和尚の講演が終はった。

第三章 慧
智慧は、良寛和尚が講演した。曹洞宗では、止観のうち観を作務で得る。或いはすべての排他団体に当てはまるが、回向や祈祷で得る。信者さんの安堵した顔が、何よりの観だ。
愚僧は徳川体制の、寺請け制度や、本末制度や、宗論禁止により、僧が堕落した状況下で、宗門を離脱し唐土へ渡航し、帰国した。
渡航し得た事は、宗派は学派ですべての宗派が同じ目的地を目指すことと、漢詩で仏法を説くことと、漢詩に平仄は不要なことだ。
宗門を離脱したため、作務が出来ず、後輩を指導することも出来ず、弟子を育てることも出来なかった。主に、観部分の欠落だ。それを、漢詩と和歌と書道で、補へたかも知れないし、足りなかったかも知れない。愚僧は補へたと思ひ、漢詩や法華讃に現れてしまった。
或いは、観が足りなかったのかも知れない。しかし、高僧だ禅師だ、と呼ばれるより、このほうがよかった。以上で、良寛和尚の講演が終はった。

第四章 今は平時だ
講演会で三人が痛感した事は、昭和三十九年以降は平時だ。性格は、よくなければいけない。性格をよくすることが、仏法の目的だ。三人の意見が一致した。そして、会場来場者の意見とも一致した。

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