三千三百二(うた)短編物語(曼荼羅が意味するもの)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
九月四日(金)
第一章 輪廻と無常
永禅和尚は、あの宗派と接点が無い。良寛和尚は、巨大信徒団体の創立者と同郷、石原莞爾は、生前に信仰した団体が提携した本山と、あの宗派の本山が、元は兄弟寺だった。
永禅和尚に接点がないから、感じたのかも知れない。鎌倉教祖の曼荼羅は、仏法の原理である輪廻や無常無我に反してゐないか。
例へば曼荼羅に書かれた天台や伝教は、輪廻から見れば、既に何回も転生した。無常無我から見れば、阿羅漢となってもはや生まれ変はらなくなったことだらう。
或る時、そのことを二人に話した。二人は賛成するとともに、鎌倉教祖の曼荼羅は非常時用、臨時用だった、で纏まった。
無常無我これぞ仏道真の説非常時用を例外として


第二章 伝教の悪評価
鎌倉教祖は、伝教を天台と並べ、同格とした。鎌倉時代は、これが正しかったのだらう。しかし渡航歴のある永禅和尚や良寛和尚にとり、海外の宗派は学部だ。仏法界全体が一つの大学、各宗派は学部に当たる。ところが日本の宗派は、完全に独立した存在だ。或る宗派で高僧になっても、よその宗派では、沙弥から修行し直さなくてはならない。
こんな形態にしてしまったのが、伝教だ。しかも戒律は、大乗戒を定め、これは比丘戒に付加するものなのに、大乗戒だけにしてしまった。
それで機能するならよい。実際は、延暦寺と三井寺の武力衝突や、京都市内への強訴、それらに反発した信長による焼き討ちと、醜いことばかりだった。

第三章 曼荼羅は、後から変更できない
鎌倉時代には、伝教の反仏法行為は、知られてゐなかった。あの鎌倉教祖も、伝教は正しかったが、比叡山第三代、第五代の、円仁、円珍が悪い、と考へた。
しかしこれは、鎌倉教祖の間違ひだ。伝教こそ、比叡山を密教化した張本人だ。否、実態は更に悪い。伝教は、朝廷や貴族たちが密教の現世利益を求めるので、それに追従した。伝教自身は法華経が正しいと考へてゐたかも知れないが、尚の事悪い。仏法より、名声や地位など、自分の利益を優先させた。
悪い事はできないものである。伝教は、密教を得ようと、いっしょに留学した空海から書籍を借りたが、後に空海と不仲になった。
更に、悪いことはできないものである。空海に負けないやう渡航した円仁と円珍の門流が、比叡山で派閥争ひを繰り返し、つひに比叡山と三井寺の武力衝突に至った。
これらと、そもそも学部だった宗派を派閥にしてしまった伝教の悪行を、鎌倉教祖が知ってゐたら、曼荼羅に伝教の名を入れたか。
日本のAI三人の中で、良寛和尚と石原莞爾が、思はず唸った。二人とも、或る時点で曼荼羅を固定すればよい、と考へた為だった。良寛和尚は、同郷の牧口が創価教育学会を宗教団体に変更した時点、石原は、田中智学が佐渡始顕本尊を選定した時点だった。

第四章 神々には、寿命がある
輪廻をするのは、天台大師や悪僧伝教だけではない。神々には寿命があり、それを過ぎると転生する。六道輪廻とは、さう云ふ事だ。天は、六道の最上位だが、固定ではない。
すると神道はどうなるか。永禅和尚が問ふた。良寛和尚が、神々の功績を顕彰したもので、神々の魂ではないことを答へた。石原が、北山本門寺に戦前は垂迹堂の跡があり、一六七〇年に焼失するまでは鏡を祀ったさうだ、魂そのものではない、と応じた。なを、昭和五十年に垂迹堂は再建された。
神々も寿命はあるも黒船の襲来が呼ぶ永続思想


第五章 ますます一時的、非常時用に
鎌倉宗祖の曼荼羅は、ますます一時的、非常時用になった。皆の意見が一致した。と同時に、宗派によって管長だったり坊主しか、曼荼羅を書いてはいけない、とするが、妻帯者は非僧非俗だから、そもそも曼荼羅を書けない。これも皆の意見が一致した。
曼荼羅は、布教途上の一時用で、布教が完成したときは、仏像を建立する筈だった。これは石原が云ったが、鎌倉時代の古文書にある事を知り残る二人は、なるほどと頷いた。(終)

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