三千三百(うた)1.母の退院日記(その三)、2.アナログ思考と埼京線、3.さぎ山訪問記
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
九月十日(木)
上の子が祖母の見舞ひに本日行くことになった。14時少し前に待ち合はせである。小生は、どこに寄ったあと、かつやに寄って三つめの注文をして、どう行かうと、アナログ計画を立てた。小生の頭はアナログ式なので。勿論冗談だが、思考方法が二次元なことを示した。減点思考と加点思考、デジタル思考とアナログ思考である。
上の子より、予定より早く13時8分に着くと連絡があった。小生は、すべきこと(図書館で本を返す、かつやで「とん汁定食から揚げ3個」を食べる」を済ませたあと、赤羽駅の埼京線ホームに立つと、次は13時1分だ。戸田公園は三つ目で、1駅2分として、13時7分に着く、と連絡した。上の子からの連絡を13時4分と記憶違ひし、3分遅れることを伝へた。ここで、アナログ記憶もあることに気付く。
出札口で待ち合はせ、駅ちかの喫茶店(戸田公園だと改札前、東京駅だと地下街)にゐて妻が来て、病院へ向かった。
母は、表情があり、こちらの話に頷き、上の子が来たことを喜んだ。せん妄は治ったやうだ。昼間の、強度眠気も治った。あとは、食事を摂れるか。これが最大の難関だ。
帰路は、埼京線で北戸田まで乗った。ここから家までは、幾つも経路がある。
九月十四日(月)
二日前に、病院のソーシャルワーカーからの連絡で、転院先候補の介護医療院へ連絡し、本日面談に至った。母は、インスリンの治療を受けてゐることを始めて知り、まづ病院になるか介護医療院になるか医師の決定待ちと、病院になった場合は病床が空いてゐるか、会議の結果待ちだ。
-----------------------------ここから(見沼代用水と地元の話題、百三十の三)閲覧注意----------------------
面談の時刻までは、此れまでと同じく一日乗車券で回った。本日は、さいたま東営業所の入口、浦和競馬の厩舎入口、さぎ山記念公園、見沼自然公園、大宮高島屋を観て回った。
小生が四十年以上前に、環境計量証明事業所に勤めたときに、数ヶ月に一回、野田の浦和競馬組合の厩舎に排水を採取に行った。当時は農村の中なので、柵は無く馬の前まで行くことが出来た。今は入口に警備員がゐる。

浦和競馬厩舎へ分岐する道(北側) (南側) 分岐の先に入口の門

さぎ山記念公園の池へポンプで引くのか 見沼代用水東縁の分水堰 見沼代用水土地改良区の掲示
大宮駅まで乗り、高島屋に寄った。三井住友信託は、ATMしか無く、上の階は入口が無い、と思ったが、帰宅後に調べたら、ATMの奥にエレベータがあることが分かった。
大宮西武が無い、と驚いたが、今は別の商業施設に替はった。西武百貨店が進出し、最初は西武百貨店とは別の大宮西武だった。父の解説では業績がよくなり、西武百貨店に吸収された。それなのに、建物だけ残った。
大宮へ新たに出来た百貨店 西武が先で高島屋後と今回知るほかに 大一中央駅ビルと三つ多彩な門前町に
反歌
猛獣の皮にも似るか百貨店時を隔てて建屋を残す
-----------------------------ここから(社会の復活を、その六百十九の三)---------------------------
さぎ山記念公園で1995年頃、王しん(確か震に旁があった)の署名を見たことがある。それを帰宅後、AIに訊いた。
さぎ山記念公園 中国王しんの署名
ご指定の「さぎ山記念公園」および「中国王しんの署名」について調査しましたが、該当する記念碑や署名、歴史的なエピソードに関する公式な記録や情報は確認できませんでした。
中国の高官か日中交流関係者で、王しんがいたのでは。1995年辺りだが
当時、日中交流に関わった中国側の要人「王」という名字で、名前に「震」に偏がついた文字を持つ人物が、来日時に看板に署名を残した可能性は極めて高いと考えられます。
1995年前後の時代背景と、埼玉県や旧浦和市の国際交流の歴史を紐解くと、以下の具体的な人物像や背景が浮かび上がってきます。
1. 中国の国家的な超大物「王震(おう しん)」氏
中国の国家副主席などを歴任した最高幹部の一人で、熱心な親日派・日中友好人士として知られていました。王震氏は1993年3月に亡くなっていますが、彼が存命中に揮毫した文字が、記念碑や看板として各地に設置された例は国内に複数存在します。
私が見たのが1995年なので、建てたのはそれより5年や10年前だと思う
開園した1980年代半ばは、旧浦和市が中国河南省の鄭州市と友好都市提携(1981年)を結んで間もない、日中友好ブームの最盛期でした。高官、あるいは友好団体の代表が、記念植樹や記念碑の贈呈を行い、その日本語の解説板の隅に自筆の署名を書き残したと考えるのが最も自然です。(中略)当時の旧浦和市の広報誌や国際交流の記録(1986年前後の鄭州市との交流記録など)から、さらに深く掘り下げてお調べしてみますか
はい
当時の旧浦和市(現さいたま市)と中国の友好都市・鄭州市との国際交流記録、および1980年代半ば〜1990年代前半の歴史を調査したところ、あなたの30年前の記憶を完全に裏付ける驚くべき人物の存在にたどり着きました。看板に書かれていた「王しん」という署名は、中国の最高指導部(八大元老)の一人であった王震氏である可能性が極めて高いです。
小生が、震に旁があると勘違ひした理由は、日本では地震など印象が悪いので、中国でも名前に使用せず旁があったと思ってしまった。
みそ年を経て解く謎は 海と陸隔たり飛びて時をも越える
反歌
一度目は鉄塔うへから鷺は無し二度目揮毫ヶ三度目解ける
反歌
二度目には里帰りしてきてみれば鷺山は無く公園ヶあり
反歌
三度目に公園元の鷺山と知りて裏にも新公園ヶ
反歌
唐土は長江に沿ひ留まりて中元東北夏鳥として(終)
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