三千二百九十七(うた)ホームページ執筆日記(AI圧縮、藪原と新島々)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
八月二十七日(木)
最近、AIに訊くホームページが増えた。ところが、AIに訊くと容量が大きくなる。100KB越えが続出した。3.5KB以上に作ることを内規としてきたので、100KB越えは異常だ。
最初はこの理由で、圧縮化を始めた。だいたい2/3に圧縮できる。作業を継続するうちに、読みやすくする意味も加はった。AIの作った文書は、無駄な表現、情報の重複、国籍不明語が多い、と云った欠陥がある。これらすべてを直した。
そして3267群まで終了した。3267_5を3267_6に、二分割する改良作業も加はった。
AIは無駄や醜き表現が混じる弱点自動まだ無理


九月二日(水)
昭和四十年代の鉄道愛好仲間の写真に、中央西線藪原があった。かつて上高地へのバスがあったのでAIに訊いた。今回は最後に、HTMLの改行記号付きを最後に入力すると、苦労して整形しなくてよいことが分かった。
藪原から上高地へ
藪原から上高地へ、続編
思へば、昭和四十年代に藪原の名が無かったのは、木曽福島が始発終点だった為た。昭和五十年代に、木曽福島と藪原間が廃止になったため、藪原が載るやうになり、記憶に残った。
このあと、名古屋からの列車で松本から島々まで行く気動車が一本あった話になるが、html改行付きに載らなかったので、以下に複写すると
3. 実は「本当に線路を乗り入れた」別の直通列車もあった
新宿からの電車ではありませんが、昭和40年代には、名古屋発の国鉄急行「きそ」などが、実際に松本駅から松本電鉄上高地線の線路へそのまま乗り入れ、終点の新島々駅まで直通運転していた歴史もあります。国鉄の気動車が私鉄の架線の下を走って新島々まで行くという、非常に珍しい運行形態でした。

あの時代は、新島々ではなく、島々まで線路があったのでは

新宿からの急行列車や夜行列車が全盛期だった昭和の時代には、現在の終点である新島々駅ではなく、その先にある島々駅まで線路が続いており、そこが名実ともに上高地線の終点でした。
1. 本物の玄関口だった島々駅
大正11年(1922年)の全通から昭和の中期まで、終着駅は島々でした。かつては新宿駅や名古屋駅から来た登山客がここで電車を降り、駅前にズラリと並んだ上高地行きのバスへ乗り換えるという、凄まじい熱気に包まれた山岳観光の大拠点でした。
2. バス乗り場が新島々へ移転(1966年)
昭和40年代に入ると登山・観光客が爆発的に増加し、島々駅の駅前広場が狭すぎて大量のバスをさばききれなくなってしまいました。そこで1966年(昭和41年)、一つ手前にあった無人の赤松駅の周辺に広大なバスターミナルを整備し、駅名を新島々駅に改称して、こちらに集約しました。
3. 台風による被災と廃線(1983年〜1985年)
1983年(昭和58年)9月、台風10号による大規模な土砂崩れが発生し、新島々〜島々間の線路が埋まりました。すでに観光客の乗り換え機能は新島々駅に移っていたため、莫大な費用をかけて復旧させるメリットが薄く、そのまま1985年1月1日付で新島々〜島々間(約1.3km)は正式に廃止となりました。

奈川渡と水殿稲核三ダムの建設の為 渚まで蒸気機関車牽引し電気機関車付け替へて 赤松までの貨物は走る

反歌  セメントは粉末のまま赤松へ圧送式でサイロへ向かふ
反歌  トラックヶサイロの下へ停車してセメントを積み工事現場に
反歌  すぐ横はバスターミナル完成し乗客も待つバスの車内へ(終)

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