三千二百九十八(うた)田中哲也「良寛 老荘思想を実際に生きた日本人」
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
八月二十八日(金)
田中哲也「良寛 老荘思想を実際に生きた日本人」は、前半賞賛、後半反対。
まづ序章に
禅宗は老荘思想化したインド仏教ですので(以下略)

これは概ね賛成。完全に賛成ではないのは、達磨大師の伝へた仏法が唐土化したものが禅宗であり、老荘思想以外の道教や儒教も含まれる。これらは「概ね」に入る。
次に、良寛和尚は
曹洞宗の僧侶として修業を積み、釈迦が行った托鉢と坐禅の生活をし、法華経の「阿羅漢を目指すことが、禅僧としての自分の役割であり(中略)しかし晩年には、天真仏に任せることを信条とした。(中略)私はこれを、「無為自然」を思想の根本に置く老子が

不同意の部分を赤色にした。阿羅漢とは、仏の事である。ところが、放送禁止用語を使ふ全国良寛会と竹村某は悪質過ぎるので問題外として、日本では多くの大乗関係者がこの語を、仏より低いものと見る。
小生より上の世代では、アラカンとは嵐寛寿郎のことだ。鞍馬天狗など正義の味方を演じつつ虚無的な役と、網走番外地など悪役があり、だから好意的な人と敵対的な人がゐる。そのことも関係し、あまり印象はよくない。
田中さんが、阿羅漢の語を好意的に用ゐた事は、称賛できる。
第二章へ入り
吉本隆明さんは、インド仏教には、肉体的な修練を加えることで天地と合一し、眼に見えない自然の精髄に融合して、無に到達できるという考えがあると言っています。

吉本さんの考へには不同意だが、肉体的な修練を加へることに注目した。小生自身は
一、禅定は三学の一つ
二、止観自体が、水道のメータと同じで、すればするだけの功徳を積む
と二つの考へを持つ。だから吉本さんが云った内容には反対だが、肉体的な修練に注目した。それは釈尊が、苦行と快楽から離れることを説いた。苦行は離れても、快楽はいつの間にか近づいてしまふ。
更に吉本さんは
仏教の理念(中略)へどうやって到達するかが、それぞれの宗派の教義にわかれ、(以下略)

目的地は同じで、どうやって到達するかが違ふ。これはよい考へだ。そもそも宗派とは学派だから、当然のことだが。吉本さんに関係する話題を終了し、次に
自画像に「是は此れ誰ぞ、大日本国国仙の真子沙門良寛」と書いて、国仙和尚への恩を表現します。

間違ひの部分を赤色にした。僧侶が名乗る時は、誰誰の弟子、または住持の場合は何々寺、を付ける。つまり、普通の名乗り方である。だから、越州の産了寛と書いたと云ふ混同万嘘は、将に万嘘だった。
第二章の円通寺時代が終はり、第三章「諸国行脚から帰郷を決めるまで」に入る。まづ登場する漢詩が「本色の行脚の僧」で始まる。田中さんの訳は
行脚僧たるもの
どうしてゆったりと構えていたりできようか
だからこそ師匠の元を離れ鉢をもって
意を介して他国へ出かけたのだ
朝には霊峰の頂に登り
夕方には黒い海を横切り
仏の教えに合致し覚りを得ないうちは
死ぬまで決して修行をやめることはない

この詩を読むと、良寛和尚は外国へ行ったことがよく分かる。飯田利行さんは、柳田聖山さんの渡航説に出会ふまでは、師匠とは故郷の玄乗和了のことで、他国とは越後から離れることで、玄海とは玄海灘ではなく深い海、と苦しい解釈をした。
しかし渡航説に賛同してからは、素直な解釈に改めた。小生も、素直な解釈に賛成だ。先ほどの「大日本国国仙の真子沙門」に明記するやうに、良寛和尚の師匠は国仙和尚だ。大日本国から見て、他国とは唐土であらう。江戸時代に渡航は国禁だった。だから玄海など、別の解釈を可能にした。
江戸時代に「大日本国」を名乗る事は、外国に行かないと気付かない。それは、その次の詩
昼は城址に出でて行(ゆくゆ)く食を乞い
夜は巌下に帰りて坐して禅に安んず(以下略)

にも現れる。城址は昔栄えた街のことだが、日本には該当する場所がほとんど無い。長岡京や近江大津宮は、城址の雰囲気ではない。城が街の意味だとしても。此の漢詩を読むと、唐土の城址で托鉢をする良寛和尚が目に浮かぶ。
ところが田中さんは、この次に混同万嘘を引用する。荘子の書が出て来るので当然ではあったが。小生が混同万嘘に反対する理由は、何もせず小屋の中でぼうっとしてゐたとする部分だ。良寛和尚の詩にある「死ぬまで決して修行をやめることはない」とは正反対ではないか。

八月二十九日(土)
第四章「故郷越後に帰郷した頃」は四頁半と短い。ここには橘崑崙の「北越奇談」を引用し
後海浜郷本といへる所に空庵ありしが 一夕旅僧一人来って隣家に申し(中略)托鉢して 食あまる時ハ 乞食鳥獣にわかちあたふ

混同万嘘とは大違ひである。そもそも混同は、北越奇談を読んで、別の出会ひを装あたかも良寛和尚みたいに飾したのであらう。
第五章は、三学に言及するので好意を示しつつも、色界第一禅から九番目に至るまでを載せることには、釈迦滅後教義の複雑化なので違ふのではないかと思ひ、第六章は賛成も反対もなく読み終へ、第七章の途中で詠むのを止めた。
仏道か良寛和尚始めとし話を深くするときは尊き文ができるとも ほかの教へのついでとし入り醜きいつか現れる

反歌  円通寺道元渡航詩と歌は和尚悟りの五大の元素(終)

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