三千二百九十六(うた)短編物語(戦国時代最悪の裏切り者、羽柴秀吉)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
八月二十五日(火)
はじめに
日本史上最悪の裏切り者は、日本史上初の敗戦を起こした、岸信介、東條英機、武藤章であらう。
そして、日本史上二番目の裏切り者は、戦国時代最悪の裏切り者、それは羽柴秀吉であった。

第一章 織田信長
織田信長は、狂気の人物だった。それは、家督を継ぐ前にも現れた。そのため、家督騒動が起こった。
信長が家督を継いでからは、生き残るため、よく云へば努力を重ねた。悪く云へば、猫をかぶった。努力には、家臣たちへの配慮もある。だから、家督騒動のときに、弟の側に付いた人間も許した。
信長の異常に気付き、早く反旗を翻した人は、見る目がある。荒木村重は、その一人かも知れない。光秀や秀吉など、多くの信長重臣が説得し、一旦はその気になったが、信長が一回でも背いた者を許すはずがないと、見破った。
そしてそれは、現実のものとなった。信長は、佐久間信盛、林秀貞を、昔の事を理由に追放した。特に秀貞は、家督騒動のときに、信長の弟、信行を擁立したことを理由とされた。
安国寺恵瓊も、その一人だ。「信長の代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と毛利家の重臣に書状を書いた。


第二章 信長、つひに本性を出す
佐久間らを追放したのは、本願寺との戦争に勝った直後だった。その一年半後に武田勝頼を滅ぼし、信長の狂気は、ますます激しくなった。
本能寺の変まで、あと三ヶ月である。この間に、信長の重臣たちは、暗黙のうちに、誰かが信長を追放しなくては大変なことになる、と考へるやうになった。とは云へ、誰も火中の栗は拾ひたくない。
秀吉が、信長本隊の出馬を要請したときに、誰もが、秀吉がやってくれる、と思った。おそらく信長を監禁し、信長の実子で秀吉の養子となった秀勝を後継とするつもりだらう。

第三章 軍事的な好機現れる
光秀は、この計画にそれほど乗り気ではなかった。勝家は、家督騒動のときに弟の側に付いた。第二の林秀貞になることは、目に見えてゐた。秀吉は、信長の命令に背いたことが何回かある。そのうちの一つでは、危うく切腹になるところだった。
二人と比べ、光秀は背いたことがない。失敗もない。だから信長も信用し、ほとんど兵力のない京都に滞在した。光秀は、純軍事的に考へる男だった。今攻めれば、絶対に失敗しない。
勝家や秀吉とは、仲が悪くはない。あとは、合議で織田家を運営すればよい。

第四章 秀吉のずるさが勝つ
秀吉は、抜け目のない男だった。光秀と異なり、軍事的な才能は乏しいが、それは半兵衛や官兵衛に任せた。光秀が信長を殺害したと知るや、すぐに戻って来た。
光秀にとり、これは想定外だった。純軍事的に、秀吉が戻ってくる筈がない。信長に援軍を要請した男が、なぜ戻って来れるのか。 細川藤孝が、信長と会ふ機会がほとんどなかったことも禍となった。勝家、秀吉、光秀は、信長と顔を合はせる機会が多いので、信長の狂気を知ってゐた。しかし藤孝は、間接的に信長から命令が来るため、信長が狂ったことを知らなかった。

第五章 戦国時代最悪の裏切り者、羽柴秀吉
織田家重臣たちの、暗黙の密約を裏切った秀吉は、戦国時代最悪の裏切り者となった。そればかりではない。人たらしの秀吉と呼ばれたのは、信長と云ふ重しがあるときの話だった。
光秀に勝つや、柴田勝家を滅ぼし、勝家と組んだ信長の三男織田信孝を切腹させた。更に、徳川家康と組んだ織田信雄をまづは離脱させ、次に改易した。
本能寺の変で信長とともに死亡した、織田家嫡男信忠の子、三法師は、秀吉が織田家当主を強引に進めたにも関はらず、秀吉は中規模(十三万石)の大名に格下げした。

第五章 太閤記は誉め過ぎ
明治時代は、反徳川の気風が強かった。かう云ふ時は、徳川に滅ぼされた豊臣の人気が出る。そのため太閤記は、よく云へば誉め過ぎ、悪く云へば虚偽の史記だった。
国民の期待をも裏切った秀吉は、やはり敗戦責任の三人組に次ぐ、国民への裏切り者だった。
維新後や敗戦後には経済が上昇期にて 太閤を目指す人たちそれもまた好し

反歌  太閤記かつて人気の物語り裏側を知り興味は消える(終)

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