三千二百四十二(普通のうた、朗詠のうた)東京メトロの二十四時間券(中野サンプラザ、高田馬場ミャンマー、海のうへの鉄路、玉川沿線)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月二十二日(月)
東京メトロの二十四時間券を使った。最近、都営交通の一日券を使ふ事が多かったので、何と、去年の二月以来だった。
一、まづ中野駅へ行った。サンプラザは、昔のままだった。ここは、懐かしい建物だ。
二、次に高田馬場。ミャンマービルは健在だった。入居企業は、ミャンマー以外も多い。四分の一が、ミャンマー関連か。
三、西葛西。昭和四十年代都電ファン仲間の一人が、東西線が開通した時は海原を走るやうだった、と語った。荒川中川鉄橋の先に、海の跡があったことも話題になり、現地調査した。
四、日本橋で降りた。
五、銀座で降りた。
六、丸ノ内線で方南町支線へ。

まづ、一では中野サンプラザの裏から、区役所広場の犬の像を見た。中野サンプラザ、警察病院、帝京平成大学、明治大学。この組み合はせには、驚いてしまふ。中野サンプラザが民営化される前は、六十五歳迄勤めた会社が、会合をここで行った。民営化されてからは貸しホールが高くなり、別の場所へ移ったが。警察病院はかつて飯田橋に在り、近くをよく歩いた。健保のジム兼検診センターがあったからだった。帝京平成大学は、同大学が経営する専門学校の教師採用の説明会へ行ったことがある。明治大学は、特別支援学校へ教へに行くとき明治大学和泉校舎内を歩いた。昔からの既得権で中を通ることができて、入学試験など入れないときは、通知が来た。
サンプラザは、かつて高台から見ると、霞が関、サンシャイン、京王プラザホテルに次いで、四つ目の高い建物だった。それから数年を掛けて、京王プラザの周囲に高層ビルが増えて、西新宿は高層ビル街になったが、四ヶ所であることには変はりがなく、中野サンプラザは斜めの形に特徴があった。

二では若い南伝僧がゐた。付いて行くと、少し離れた民家に近い飲食店に入るところで声を掛けた。日本語と英語で話し掛けたが、通じないので友好的に分かれた。
沖つ波高田馬場はミャンマーと鉄腕アトム発車の合図

三では、かつては海岸沿ひだった神社に参拝の後、土手まで行った。東西線開通後も、海岸があったことと、その後に水路と池で残ったかつての海は、高架の道路になってしまった。

  
中野区役所横の広場(綱吉の時代は犬小屋だった)    西葛西地図(反射するので、背後の青が写る。右図は省略) 神社(かつては海岸に在った)

  
拝殿の裏に本殿も見える               本殿右後方に摂社と石造りの祠が二つ         池と水路の跡(かつての海。左に神社が見える)

夏麻引く海を埋め立ておかと為す 人は悪きの物の怪か 人に憑きたが夏麻引く西の洋なる思ひ想ふや
反歌  夏麻引く西の洋なる思ひにて生きとし生けるすべて滅ぼす

四では、日本橋高島屋にエレベータ係がゐる記事を読んだので行ったが、別のエレベータを見たやうだ。記事を再度見ると、ハンドル式だ。このとき乗ったエレベータは、ボタン式だが、外側の各階で上りと下りを押したことを表示する。これは、操作盤を開けると手動式になる。
ハンドル式が、昔は完全に手動だったが、今は停止が自動になった、と記事は云ふ。これは正しくはない。小学生の時に、既に停止が自動だった。つまりハンドルは起動合図兼、通過合図だ。次の階へ止まるときは、ハンドルを回して、すぐ戻す。通過する時は、ハンドルを回し、停車する階が近づいたら、中間へ戻す。
当時から、乗客押しボタン式兼用のエレベータもあった。当時は、どの百貨店にもエレベータ嬢が勤務した。

五では、吉野さんに関係する医院、二ヶ所を訪問した。一つ目の医院では、吉野先生の動画を観たが、内科は保険診療が出来るか。二つ目の医院では、吉野先生の動画を観たが、今も吉野先生は関係してゐるのですか。それらを質問するだけだが、これで、医院の内情、吉野さんの事情、どちらも分かるので不思議だ。
総じて、吉野さんの動画での主張は正しい。一方で、昔も癌はあったが、伝染病などで亡くなる人が多いので、人数は少なかった。もう一つ、選挙に立候補することは、手段であって、目的ではない。この二つに気を付ければ、これからも正しいことを主張し続けることだらう。

六は、六十五歳迄勤務した会社が移転前も移転後も丸ノ内線沿線だったことは、無関係だ。二つの駅では降りなかった。永福学園に非常勤で出張した時期は、別の用事もあり方南町支線の三駅でよく乗降した。
懐かしの杉並中野淀橋は玉川の水巡り栄へる
(終)

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