三千二百十七(うた)土手通り経由台湾祭(後編、言問橋から)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
五月二十三日(土)
言問橋を渡り少し進むと、感じのよい飲食店が残存する道路がある。小梅通りである。昭和四十年代にもあった記憶はあるが、もう少し道幅が狭かったと思ふ。路地にしては、広かった。
その先がトロリーバス時代は業平橋、バスになってからは業平橋駅前だ。今は更に、駅名が変はった。そこから電波塔付属建物の商店街へ入った。エスカレータで四階へ行き、商業施設の中を抜けると、広場で台湾祭をやってゐる、やってゐる。
酒類の値段が八百円で高い。すべての店の最低価格がこれなので、協定だな。六百円なら無条件で買ふ。七百円だと考へるが、おそらく買ふ。八百円なら、買はない。中央の飲食部分のテント内と、周りの頭上にあるランタンを観たあと、外に出た。
台湾の祭りに着きてランタンを淡々と見て帰路へと急ぐ

新吉原花園池ほかで時間を費やしたため、帰りは土手通りから、浅草発池袋行きのバスに乗るか、と計画を立てた。三ノ輪橋で都電を降りてから、歩き続けた。隅田公園で休みたいのを我慢した。言問橋から464号までは往路と同じだった。旧土手と20m離れて並行する山谷堀公園で歩き、10分休み、また歩いた。10分で心と足が、地獄から極楽へと回復した。 往路と同じ土手通りを50mほど重複のあと、江戸町通りを歩いた。ここは、途中から遊郭の跡地だ。今でもカタカナやアルファベットの怪しげなソープが並ぶ。店の前には昼間だと云ふのに、怪しげな男が立つ。客を引っ掛けようと狙ふ。かう云ふ道には、品行方正ではない人は、来てはいけない。それらを横目に進むと、東盛公園に出た。確か三日前に特集を組んだ牧口さんが校長を勤めた小学校だ、と帰宅後に調べると、そのとほりだった。 このあと、三ノ輪の目黄不動を観た。交差点の標識で、日光街道がここで終はるので、不思議に思った。このあと都電に乗り、帰宅した。
車内では席に座りて靴を脱ぎ目立たないやうくつろげば 心と足は回復し旅のこつにて明日への鋭気

反歌  北区まで都電の次はJR帰宅の旅路足は元気に
反歌  片足を脱ぎて後ろか両足のかかとを上げて目立たぬやうに
反歌  靴の中いつも蒸れずか常に履き脱がずか一つ選択がよし
中学の修学旅行で、新聞紙を持って行き電車の車内に敷いて靴を脱ぐとよい、と教師から云はれた。その十年後に作業環境測定士として工場に行くと、大きな工場でも畳敷きの休憩室があり、靴を脱いで休息を取る人が多い、との事だった。当時の国鉄には、畳敷きのお座敷列車があり、団体客に人気があった。
これらが変はったのは、平成になってからだった。今は靴を脱がないのが普通なので、目立たないやうに片方づつ脱ぎ、脱いだ足をもう一方の後ろに回す。或いは両足のかかとだけ脱いで、前方からは目立たないやうにする。
小生の靴脱ぎは、年季が入る。三十年ほど前にアメリカへ旅行したときに、ロサンゼルスからサンディアゴまで、アムトラック(全米鉄道旅客公社)の列車に乗った。車内では、目立たないやうに上記の方法で、靴を脱いだ。欧米は、他人の前で靴を脱いではいけない。他人に不快感を与へないことは、鉄則である。
さて話を国内に戻し、靴を脱がない人は、家に帰るまで脱いではいけない。足が蒸れて臭ひがするからだ。常に脱ぐか、絶対に脱がないか、どちらかだ。中途半端はいけない。

  
小梅通り                      目黄不動                      目黄不動その二

 
目黄不動その三                   日光街道

今回の小旅行の目的は
一、鷲神社の横を曲がり、仲の町通りから、土手通りの下半分を歩く
二、台湾祭を観るとともに、酒を一杯飲む
三、帰路は、アサヒ会通り、日の出会商店街から、土手通りの上半分を歩く
往路と帰路で道を換へ、退屈しない方針を立てた。隅田川は、桜橋で渡る計画だったが、いつの間にか吾妻橋経由になった。これは、桜橋と東武線横の歩行橋を間違へて、桜橋と吾妻橋がすぐ近くだと勘違ひした。更に吾妻橋通りのすぐ横に空木電波塔があると、通りと電波塔の距離を、過小評価した為でもあった。実際は、北十間川を挟み100m離れてゐた。
三つ立てた目的のうち、一の後半「土手通りの下半分を歩く」と、二の前半「台湾祭を観る」と、三の後半「土手通りの上半分を歩く」、を達成したので五割だ。しかし充実した気分になれたのは、途中にあるたくさんの遭遇だった。
それなら計画を立てる必要がないではないか、と思はれさうだが、十分に調べたから、遭遇に対処ができた。計画を立てるとは、十分に調べることでもあった。 ここで日光街道を調べた。日本橋から中山道と共通で三区画進み右折。なを国道四号線は五区画先を右折。どちらも清澄通りで斜めに合流。言問橋を左斜めに進む。日光はこれ以外に二つあり、先日の日光御成道は中山道を本郷追分で分かれる。日光例幣使街道は、中山道を倉賀野で分かれる。(終)

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