三百十五、林氏墓地、東京都水道歴史館上水記見学記

平成24年
十一月四日(日)「都内文化財公開」
東京都が主催する都内文化財公開事業が先週土曜から今日まで行はれた。私は朱子学の林氏墓地と、東京都水道歴史館の上水記を見学した。
東京は本来は京都と同じで文化財の多い街である。ところがビルが乱立し住宅地は郊外に移転した。郊外は元は農地だつたから文化財が少ない。つまり歴史から断絶した空間である。さういふところに生活をすると小さな船に乗るのと同じで変動が激しい。世の中が不安定なのはそれが原因である。歴史と繋がつた生活をすべきだ。
東京だけではない。全国各地がそれぞれ文化財は多い。ところが都市化で郊外に住むから歴史と断絶する。本来は近くに文化財がなくても歴史と繋がつた生活はできる。それを破壊してきたのが、一つ目には資本主義であり、二つ目には朝日新聞などの自称進歩主義である。

十一月五日(月)「儒教と日本」
林羅山に始まる林氏の墓は興味深かつた。上野忍岡からの移転と現在地の縮小により八世から十一世までが原型を留める。墓石の背後に埋葬地があり石で囲み木を植へる。七世のとき子孫が途絶へ幕命で美濃国岩村藩主の子が八世となつた。それまで林家の私塾だつた昌平校を八世が幕府に献上。一方で禄高が千五百石から三千五百石に加増された。この辺りは林家と幕閣の八百長と言へる。
今から六年前に私が人事採用にゐたときに同和問題の講演会を聞きに行つた。私は差別はしないから出席する必要はないのだが職業安定所あたりから半強制で採用担当者が出席させられた。日本の同和問題の権威ともいふべき方の話で興味深く聞かせて頂いた。
講演のなかで、仏教はよいが儒教は差別だといふ話があつた。その話に異論はない。その理由を考へた。一つには儒教のほうが仏教より堕落が大きいのではないか。仏教は根本分裂、大乗仏教の発生、鎌倉仏教など堕落を回復させる事件が起きた。二つには海外から導入するとき都合のよい部分だけを導入した。ワークシエアや職能別組合は導入せず、消費税だけを真似しようとするシロアリどもを見ればそれは判る。三つには幕府や藩と結びついたからではないか。

十一月六日(火)「上水記」
次に水道歴史館に行き、上水記を見た。内容を書籍にしたものは二十五年くらい前に読んだことがあるが、実物を見るのは初めてだつた。特に木の箱に筆で書かれた注意書きに興味を持つた。
羽村堰の模型、神田上水の水源地から江戸市内までのパネル、幕末地震と関東大震災の上水被害と復旧の展示もあつた。玉川上水の羽村から四谷大木戸までのパネルもあるとよかつたが、これは量が多すぎて無理か。
玉川上水は旧和田堀水衛所から下流は明治年間に盛土して淀橋浄水場まで新水路を建設した(18、都電と玉川上水へ)。しかし関東大震災で決壊したため甲州街道の地下に管を埋設した。取りあへずの復旧は旧水路を用いた。旧水路は下水の流入が一部であるためこのときから塩素消毒が行われるようになつた。江戸時代初期に作られた玉川上水は関東大震災にびくともせず、明治時代に作られた新水路は崩壊した。この事実は重要である。

十一月八日(木)「玉川上水、清流復活前」
私は玉川上水と縁が深い。二十五年くらい前に武蔵野線で通勤してゐた。休みの日に定期券があるので新小平で降りて散策するうちにたまたま深い堀を見つけた。何だらうと柵を乗り越へ3mくらい降りると堀は果てしなく続いてゐる。そのまま歩いて小川水衛所跡で確か地上に出た。玉川上水は今でも羽村取水堰から小平水衛所まで上水路として使はれてゐる。私が降りたのはその下流で、小川水衛所跡は更に下流である。
その後、下水処理水を高度処理し小平水衛所から下流に流すようになつた。だから今では玉川上水には降りられない。もちろん絶対に降りては困る。貴重な遺産である。崖が崩れたら大変である。私は崩れないやうにそつと降りた。
その三年ほど前だらうか。環境計量士の研修で計量教習所に二週間くらい行つた。たまたまその直前に野火止用水で下水処理の高度処理水で清流復活した。研修の最終日の終了後に西武鉄道で二駅くらいだらうか近いので野火止用水の清流復活点を見に行つた。 それと同じ清流復活が玉川上水でも数年後にあつた。

十一月十日(土)「玉川上水、清流復活後」
玉川上水の清流復活の後は、上流は羽村から下流は旧水路を淀橋浄水場跡までずいぶん歩いた。10往復はしただらうか。昔は事務の仕事をする人は指にペンだこができた。私はこのときあまりに歩いたから右足のかかとにペンだこみたいなものができた。二十五年経つても当時のまま残つてゐる。四谷大木戸の水門も当時は残ってゐて、水道局の営業所に行くと見学させてくれた。今は道路工事で無くなつてしまつた。
西新宿に在つた水道記念館にもよく行つた。一階が展示室で二つに別れてゐた。手前が現在の水道、通路を挟んだ奥が玉川上水など昔の展示だつた。私の一番のお気に入りは江戸時代の民家だつた。確かアサヒタウンズの中込記者が一番気に入つたのは昔の淀橋浄水場と今の高僧ビル群の光景がダイヤルを回すと入れ替わる展示だと書いてゐた。確かにあれもよかつた。
ビルの八階あたりに資料室があつた。資料室に十回は行つた。玉川上水に詳しい人がゐて直接は会はなかつたが電話で30分ほどお話を伺つた。(18、都電と玉川上水の濠地線や渋谷川の話はこのときお伺いした。あと十二社の神田上水への助水の話もあつた。

十一月十一日(日)「玉川上水、清流復活討論会」
清流が復活した直後に、地元の玉川上水を守る会が主催して展示会があり見に行つた。たまたま討論会があるといふので私も飛び入りで加はつた。参加者は7名くらいだつた。アサヒタウンズの女性記者の中込さんが清流復活の本を出版したこともあり参加された。昨日の昔と今の淀橋浄水場の話はそのとき読んだ。
玉川上水を守る会は大学教授などが多く討論会に参加されたが、私はその中でも相当に詳しかつた。例へば玉川上水は誰の所有かといふ話になつて、私が即座に水道局が管理してゐるが国の所有かどうかあいまいだと話した。私の知識は先日話した30分の電話だけである。専門の人に30分聞けば相当の知識は得られる。あと十回ほど資料室に行つたことも助けになつた。
討論会で新たに知つたことが二つあつた。江戸時代を通じて土が崩れて上水路の広がつた量と、ここ十年で崩れた量は同じだといふ。水が流れず土が乾燥するためである。だから清流が復活してもあの程度の水量では土壁を潤すには至らない。
もう一つは水道として取水した川に下水処理水を放水することが政府の基本であり、今回のように多摩川から取水し家庭や工場で使用した処理水を玉川上水から最終は隅田川に流すのは認可を得るのが大変だつたさうである。

十一月十三日(火)「奥多摩郷土資料館」
私はもう一つ関はりがある。今から三十年近く前に勤務した会社が奥多摩郷土資料館の排水の分析を受注した。私が会社の車を運転して小河内ダムの畔まで行き、郷土資料館の浄化槽の処理水と山の中腹の水の二つを採取する。郷土資料館の処理水は小河内ダムに流す訳には行かないからポンプで山の中腹に散水する。排水地点より下で地表近くの水を2リツトルのポリ容器に入れる仕組みがある。10分くらい徒歩で登つた山道の途中に30cm四方のコンクリートのふたがあり、開けると山道より30cmくらい低い位置にポリ容器がある。その水を持参した新しいポリ容器に移し会社に持ち帰つて分析する。浄化槽の処理水は通常の処理水そのもの(BOD10ppmくらい)だし、山道の水は地下水そのもの(BOD0.1ppm以下)だつた。
毎月奥多摩までドライブしハイキングもできるのでよかつた。或るとき郷土資料館を見ようと自働券売機で入場券を買つて入らうとしたところ、入口にゐた管理人が「払はなくていいよ」と小銭で返してくれた。

十一月十六日(金)「農村が住宅地に」
私が玉川上水を歩いたときは新小平駅の周辺は農地がたくさんあつた。今はすべて住宅地になつてしまつた。癌細胞のように果てしなく増大する都市部とは恐ろしいものである。
原因ははつきりしてゐて化石燃料の消費である。化石燃料を消費しなければ農村と都市は調和した状態に戻る。西洋近代文明こそ人類と全生物の敵である。動力を使はずに羽村から江戸市中まで水を引く玉川上水はその対極にある。(完)


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