三千九十八(うた)短編物語(羽柴秀勝病死せず)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
一月二十六日(月)
第一章 信長の実子
羽柴秀吉は、信長の四男を養子に迎へ入れた。羽柴秀勝である。秀吉が織田家中で出世したのは、秀勝がゐたためだ。秀吉に与へた領地は、いづれ信長四男秀勝のものになる。
秀勝は、本能寺で信長が横死し、三年後に病死した。秀勝病死で一番損をしたのが、羽柴一族であった。
秀吉の 人たらしとは権力を握る前にて そののちは信長の真似勝り劣らず

反歌  秀吉は我が儘にしてに傲慢に多くの人が巻き添へ地獄
反歌  秀吉が一人満足天下人ほかの一族悲惨地獄へ
天正10年(1582年)3月秀吉が中国攻めを開始すると、秀勝は備前に初陣し城を攻め落とした。6月実父の織田信長が本能寺の変で亡くなると、秀吉の中国大返しに同行し、山崎の合戦にも加はった。

第二章 山崎の合戦後
清洲会議で、秀勝は丹波亀山城主になった。毛利輝元の養女(内藤元種の娘)と婚約。天正11年、賤ヶ岳の戦ひに参加。天正12年、小牧長久手の戦ひにも参加した。しかし、体調が悪くなり、大垣城に戻った。
12月、秀勝と輝元の養女の婚礼の儀が、大坂城で行はれた。史実では天正13年12月10日、丹波亀山城で病死した。養女は間もなく毛利家に戻り、後に毛利一族の宍戸元続に再嫁した。
信長は甲斐の武田に勝ちてのち傲慢になり 秀勝も心が離れ羽柴の人に

反歌  秀吉も柴田滅ぼし傲慢に秀勝は逝く心身を病み
これから先、秀勝が病死しなかったら、の物語である。

第三章 病死がなければ
織田家は将軍となり、存続した。柴田を滅ぼした秀吉は、幕府の管領として絶対権力を手に入れた。
とは云へ、将軍がゐるので、膨大な側室を抱へたり、朝鮮出兵や、秀次処刑は起きなかった。そもそも秀次は三好康長の養子となったままだった。
将軍はかろしと云へど 管領の重しとなりて傲慢や堕落を防ぐ道しるべかも

反歌  管領と家老旗本同格の家臣となりて堕落は起きず
反歌  鎌倉の幕府執権連署あり機能するなら暴走はせず

第四章 秀勝跡を継ぐ
秀勝は信長の実子だ。養父の秀吉は、慎重に扱った。しかし信長が死に、柴田勝家を滅ぼすに至り、秀吉は養子をたくさん持つやうになる。秀勝は嫡子から、たくさんゐる養子の一人に格下げになった。
秀勝は一時体調を崩したものの、後に回復した。そして羽柴家の跡を継いだ。そののち秀勝の孫は、織田家に内紛が起き当主になり、将軍になった。抜けたあとの羽柴家は分家のため没落し、松平家が代々執権を務めることになった。丹羽家が繫栄するのに対し、柴田家は勝家の養子の子が細々と旗本で存続する。そのため管領の松平から、羽柴の子孫が柴田姓を名乗ることを勧められ、それに従った。
松平待つこと優れ合ふ名にて 徳無き故に徳川を名乗らず海に黒船が来る

反歌  羽柴とは丹羽と柴田に取り入る名縁起が悪く柴田へ変へる
反歌  松平昔羽柴と不仲あり理由を付けて姓変へさせる(終)

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