三千十三(うた)短編物語「直行列車と集配列車を廃止せず」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十一月二十八日(金)
第一章 はじめに
昭和五十九(1984)年は、鉄道がつまらなくなる始まりの年だった。それまで貨物は、組成駅経由で全国の一般駅(旅客と貨物)及び貨物駅に送ることができたが、組成駅が廃止された。それから二年間の暫定期間は、五十九の組成駅を結ぶ車扱直行列車154本と、組成駅とその周辺を結ぶ集配列車626本が残った。しかしこれは、それまでの普通・急行・解結貨物合計2444本から激減だった。そして二年後に、車扱直行列車と集配列車も廃止された。
もし昭和五十九年以降は暫定ではなく、二十年間この形態を続け、運賃も物価変動と同程度とし、収支が改善された場合には値下げをする、としたらどうなっただらうか。それが、これから始まる物語である。

第二章 車扱ひ貨物
五十九の組成駅を直行列車が154本なので、配送できる範囲は限られる。しかし到着時刻の明確化により、輸送量は増えて行った。その後、到着駅の希望があれば、往復の契約輸送量に応じて運賃を決めることで、輸送量は更に増えた。集配列車も運賃変動制にして、範囲外まで運転したり臨時列車を仕立てることで、更に輸送量が増えた。

第三章 コンテナ化
とは云へ、組成駅での入換時間、待機時間は、かなり長い。そこでコンテナ化を進めることにした。集配列車はトラック化した。その後、一部の組成駅で行き先を限定し、コンテナの積み替へを行なふことにした。
これはかなりの時間を要する為に、まづ機械による積卸と隣のホームへの移動を行ふことにした。その後、コンテナ待機場を作り、列車と待機場との往復を機械化した。これにより、組成駅での停車時間を減らすとともに、行き先が大きく増えた。
武蔵野操車場には、大きな全自動コンテナ待機場が稼働し、新鶴見、稲沢、吹田など全国に波及した。これにより、すべての貨物取扱駅に送ることができるやうになり、昭和五十九年以前の貨物輸送が復活した。
扱ひ量の多い駅では、トラック化した集配業務を、コンテナ車に戻して集配列車を復活した。全自動コンテナ待機場の賜物である。
円安に石油価格が高騰も 鉄路省エネ節約し 余りの軽油触媒にガソリンとして出荷をされる

反歌  国内のすべての土地へコンテナを送る使命を鉄路が果たす
石油が高騰しても、鉄道貨物が発達しトラックが減った分の軽油を節約するのでガソリンには困らなかった。もし鉄道貨物が発達しなかったなら、ガソリンが高騰したときに補助金だ揮発油税廃止だ、と無能な政治屋どもが叫び、日本はますます円安になった。
高市は安市と云ふ本当は円安進み日本破滅へ
(終)

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