二千九百七十二(うた)短編物語「律宗の和尚」
乙巳(西洋地球破壊人歴2025)年
十月三十一日(金)
第一章 良寛和尚の知り合ひ
良寛和尚の知り合ひに、律宗の和尚がゐた。良寛和尚は名を云はなかったので、仮に永禅和尚としておかう。二人の共通点は宗派組織を飛び出したことだった。
寺請けのごみ宗派なぞ飛び出すが仏陀の道を歩む修行者

永禅和尚は、律宗を含む南都六宗を調べるうちに、宗派を飛び出した。その後は、シャムの古い文献を調べることに熱中した。かつて山田長政の渡航など、日本はシャムと交流があった。しかし徳川の世になり、交流は禁止された。徳川の悪政である。
とは云へ、その前に流入した資料や、清国経由で入る書物の写しなど、永禅和尚は全国を回って調査した。
外国の交流禁止と直訴者の死刑と寺請け制度には 徳川幕府最大汚点

反歌  薩長の神仏分離妻帯は徳川よりも更に悪質

第二章 南都六宗
南都六宗とは、奈良時代に栄えた六宗のことで、学派であり教団ではない。だから学生は複数の宗に所属することができた。律宗は戒律には詳しいが、それ以外はどうするのか、と問はれれば他の宗派から教へを借用する。
他の宗派は、外国の文献により、従来仏法と大乗仏法があることが分かった。成実宗と倶舎宗と律宗が従来仏法、三論宗と法相宗と華厳宗が大乗仏法である。とは云へ、律宗の戒律は大乗仏法でも用ゐる。用ゐないのは、平安時代にできた天台宗と真言宗である。
このやうなことを調べるうちに、永禅和尚は宗派を飛び出した。なを唐土(二文字で、もろこし)の文献には小乗とあるが、和尚が云ふには律宗は小乗に入ってしまふ。そのため和尚は、従来仏法と呼ぶ。本邦初である。
従来も部派の時代は複雑化初期仏法とかなり異なる


第三章 再び現れる
良寛和尚と同じで、永禅和尚も突然姿を現した。そしてシャムのことが詳しくなった。だから親しい人の中には、シャムへ行ったのではないか、と思ふ人がゐた。或いは、清国へ行きそこで書籍をよんだのではないか、と思ふ人もゐた。どちらにしても、国禁を犯すことだから、絶対に口にはしなかった。
永禅和尚が云ふには、六宗を比べて差が在るのは、律宗だけだ。他の五宗には無い。と云ふ事は、従来仏法と大乗仏法に違ひはない。なぜ、分けられたか。
和尚が云ふには、戒律を守ることが修行だ。律宗もさうだし、シャムもさうらしい。そして禅も修行だ。これは良寛和尚が詳しい。シャムより更に天竺に近い別の国は、禅を目指すらしい。お経は禅を目指す一つのやり方なのに、大乗はお経に帰依する。
禅宗は不立文字の宗派故経に帰依せず最も近し

少ない親しき人と、それよりは多い知人は、このことを理解できなかった。考へ方が最も近い良寛和尚にこのことを云へなかったのは、永禅和尚が一生で最も残念に思ったことだったと云ふ。(終)

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