二千八百五十三(うた)「アジア仏教史 中国編 Ⅳ東アジア諸地域の仏教」朝鮮半島、ヴェトナム
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月十七日(木)
第一章「朝鮮半島の仏教」は、三国、新羅、高麗を飛ばし、李朝へ入り
五百年を通じて廃仏を儒教宣揚のあかしとした。(中略)しかし、目を中央より地方へ転ずるならば(中略)実践的仏教が土着化する時代であった(以下略)

太宗は十一宗を七宗に統合させ、寺の数も二百四十二 + 八十八に制限した。後半の数字は、廃止が決まった名刹の存続を認めた分である。
次の世宗の代になるや(中略)太宗のしいた七宗のうち曹渓と天台と摠南の三宗を合せて禅宗とし、華厳と慈恩と中神と始興の四宗を合せて教宗とすること。寺院は禅教各々十八寺を(中略)公認し、その各寺に七十~二百五十人の公認の僧を認めること。

とは云へ
世宗は(中略)英明な君主であった。国境は北方に伸長し、(中略)総耕地面積は高麗末の八十万結が百六十万結に、また戸数においても太祖代の十万戸が世宗代には二十二万六千戸に増加している。

そればかりか仏法に対しても
諺文(ハングル)を作製させると(中略)その諺文を使って訳させた書物の第一号として『釈譜詳節』を出版している。(中略)釈尊の伝を通して仏教のあり方の再考を促す(中略)書物であった。

結論として
祈祷仏教から実践仏教へ、儀式仏教から個者確率の仏教に内的展開を迫った(以下略)

日本でも江戸時代にかう云ふ将軍が出れば、明治以降は廃仏毀釈や神仏分離が無く、異なった日本になったであらう。
江戸時代世宗のやうな将軍が日本に出れば 寺と僧数は大きく減るものの質は上がりて 維新での神仏分離妻帯は無し

反歌  寺請けは将軍による仏への有難迷惑力失ふ
世宗の後、文宗・瑞宗と続くが、世宗の第二子(中略)は、瑞宗の禅(ゆずり)をうけ(中略)多数の重臣を殺害して王位についた。(中略)血なまぐさい骨肉の争いに加え(中略)仏教へ強く傾斜した。

アショーカ王に似る。そして経典一般化を受けて、末寺跡でも
私板開板も盛んになった。(中略)これら寺院のほとんどは廃棄を受けた寺刹で(中略)寺籍を除かれながら、なお従来の寺名を名のり(中略)仏書を刊行していることは仏教の土着化を示す好例であろう。

これは同感。同感ではあるが、同じ論調が幾つもの書籍に続いた。発行は昭和五十一年で、佼成出版社。関係はあると見た。

七月十七日(木)
ヴェトナムは、1400年から始めたい。
順宗の外戚(中略)は陳朝を簒奪し、(中略)胡朝を創立した。(中略)字喃チュー・ノム)を公式文書に用い(中略)新たな民族文化創造の萌芽がみられたが、(中略)(一四〇六)年、明の成祖は(中略)八十万の大軍を南下させて胡朝を滅ぼし(中略)再びヴェトナムを中国の植民地とした。(中略)(一四二七)年までの短期間で挫折したが、この時の中国人のヴェトナム人に対する同化政策は、漢、唐のそれと比較できぬほど、性急で凄じかった。(中略)仏教は、必ずしも否定されなかったが、実際には、各寺が伝えてきたヴェトナム仏教の書志は、その多くが掠奪され(以下略)

明を破った後は
国号を大越(ダイ・ヴェット)と称え(中略)黎(レ)朝を創立した。(中略)ヴェトナム人の上層社会の文化において仏教徒儒教の勢力が伯仲した時代であったといわれる。

そして
仏教が大きく社会的後退を余儀なくされるようになったのは四代聖宗の時代である。

そして
ヴェトナムの仏教も(中略)変化を起こさざるを得なかった。十七世紀になお命脈を保っていた竹林派の禅は、漸く浄土教的色彩を帯びるに至り、これをもっとも端的に掲げた、蓮宗が成立したのである。(中略)蓮宗は、中国宋代に興った白蓮宗の流れを汲み(以下略)

ここで竹林派とは、頁を遡り
陳朝の(中略)三代皇帝仁宗が無言通派から出て、新たに竹林派と称する臨済禅の一派を開き(以下略)

とある。時代を元へ戻し
一方南方の阮氏が支配する広南国では、チャム人の旧領土をヴェトナム人の土地とて開拓するため屯田制を布き(中略)チャンパ文化の残滓を消滅させるために(中略)仏教を普及させ(中略)臨済正宗を称したが、その内容は、南無阿弥陀仏を禅の公案とし(以下略)

ベトナムは阿弥陀と禅に 日本にも阿弥陀と禅は寺多し 阿弥陀はしかし真宗に 禅も今では妻帯者 だが一番の欠点は阿弥陀と禅は別の宗派に

反歌  真宗の非僧非俗を手本としすべての宗派非僧非俗へ
反歌  ベトナムの阿弥陀と禅を模範としすべての宗派相互乗り入れ
反歌  全日仏偽善組織で役立たず名誉欲禿解散がよし(終)

「初期仏法を尋ねる」(百七十一) 「初期仏法を尋ねる」(百七十三)

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