二千八百五十五(うた)「アジア仏教史 中国編 Ⅴシルクロードの宗教」パミール、ガンダーラ
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月十九日(土)
第一章「総説」は
仏教もインドより、西トルキスタンへ、さらに東トルキスタンを経て、中国へと伝わっていったのではあるけれども(中略)仏教は必ずしも西トルキスタン全体に伝わったわけではない。インドと西トルキスタン(中略)の間には、インダス上流の、いわゆるガンダーラ(現在はパキスタン領)、カシュミール(現在、東半分はインド、西半分はパキスタンに属する)、さらにバクトリア、セイスタン(現在、アフガニスタン)を経て、仏教は西トルキスタン南部のソグディアナ、フェルガーナに入っているが、それ以上、北へ、あるいは西へ仏教が広がった形跡は少ない。
中国と旧ソ連との境界は パミール高原両側に砂漠広がり東西のトルキスタンと称されて 東はソ連解体し五つの国が独立し 西は中国ウィグル自治区
反歌
天山と崑崙パミールヒマラヤが仏の道の半ばを塞ぐ
第二章「インダスからパミールへ」では
インド仏教と中国仏教の違いは(中略)二つの国の間に介在した地域・中央アジアの影響をも考慮に入れねばならない。(中略)中央アジアの人々の目には、バラモン的なものも仏教的なものも(中略)同質のものに見え(以下略)
(追記7.20 最初に読んだ時は、なるほどと思った。しかし、いつまでも疑問が残る。どれが中央アジアの影響なのか。考へられるのは、釈尊から数へて何代目とするのは、中央アジアの影響ではないのか。)
さて
大月支(クシャー)は(中略)インド側に領土を拡大(以下略)
インド側の貨幣に、初めてヒンドゥーの神像が現れる。
仏教徒が(中略)はじめて仏像をつくりはじめた時と相前後して、いきなり異民族の貨幣にヒンドゥーの神像があらわれたとは考えにくい。(中略)仏教徒による仏像表現に影響されたものである。
疑問点を赤字にした。さう云ふ時代背景だったのではないか。ヒンドゥーの神像に影響して、仏法でも仏像を作り始めたとも考へられる。
七月二十日(日)
仏教が中央アジアに出ていく拠点であったガンダーラは、同じころ大乗仏教の重要な策源地のひとつでもあった。
とするものの、大乗の出現過程は、根拠のないだらだらした作り話が続く。その後半の仏像の出現に
一方出家者たちは「観仏三昧」という修行方法をもって、仏の姿を(中略)見ようとつとめていた。
止観の方法と、観仏三昧の目的を混同した、とんでもない駄論だが
最初期の中国訳経にはこの種の「観仏」や「見仏」「念仏」「諸仏現前三昧」といった修行法を説く経典が多く(以下略)
ここで注目すべきは「念仏」で、唱へるだけでは最初期の念仏にはならない。
精神を集中して仏陀の姿を想い(中略)やがて目を開いても眼前に生ける仏陀を(中略)それら修行者にとって仏像の出現は(中略)何の苦労もなくして仏の姿を見ることができるではないか!
問題点を赤字にした。彫刻士の作った像を仏陀と認めるか。長い年月の後には、仏陀と認められるだらうが。
パミール以西の地に仏典の遺品が極端に少ないのは単に偶然のこととは思われない。(中略)インドの仏教は理論仏教といった性格をもっていたが(中略)中央アジアの風土に出て行った時、(中略)経典は学ぶべき教理としてではなく、仏塔や仏像を礼拝するように(中略)受け取られていたことが推察される。
経典は異国の言葉異国の字意味は分からず有難さあり(終)
「初期仏法を尋ねる」(百七十二)
「初期仏法を尋ねる」(百七十四)
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