二千八百三十五(うた)「アジア仏教史 インド編 Ⅳ密教」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月四日(金)
「はじめに」に
東密(真言密教)において問題とされた、大師教学と華厳教学との関係、(中略)あるいは台密(天台密教)において検討された『法華経』と『大日経』との関係は(以下略)
これらは、小生の関心外のため、まったく分からない。しかし第一章以降をまづ頁読みし、あまり読みたくないと感じた。それだけでこの本を終はらせないために、紹介した。
「はじめに」の中程には
密教の内包と外延は極めて広く、(中略)インドのアーリヤ人と非アーリヤ人の(中略)否、インドに止まるのみならず、更に西に広がり、東に及んで(以下略)
ところが第一章「密教と神秘主義」は、ハイデッカーが一枚目の写真入りで登場し、そのあとコンゴの祈願をこめるたびに釘を打ち込んだ呪像の一枚を例外に、十八番目まで十七枚の西洋人の顔を並べる。呆れたものだ。
ここで、インダス文明を築いたのはドラビダ語族の人たちだらうか。小生は、さう思ふ。ところが、アーリア人の侵入で亡んだ人たちが、アーリア人とドラビダ人の中間地域にゐたとの説も根強い。
もしゐたなら、なぜドラビダ人は滅びなかったのか。元々、ドラビダ人とアーリア人しかゐなかったからだ。
アーリアとドラビダのほか人種無し政治理由で架空を作る
七月五日(土)
第二章「密教の起源」では、
ベルギーの代表的仏教学者で、密教研究にも大きな業績をあげた、ガン大学のプサン教授(中略)は、原始仏教・小乗・大乗・タントラという四区分をする。原始仏教は、釈尊の教えであって宗教的性格に乏しい。小乗は戒律、大乗は形而上学、大乗に至ってはじめて、仏教は宗教として確立した、というのである。
プサンの主張は、戒定慧の修行が抜けてゐる。お経だけ読めば、かう云ふ解釈になるだらう。癌大学の悲惨と呼びたくなる。小生が再定義すれば
初期仏法は戒定慧の修行、従来仏法は形而上学、大乗は空想世界
密教については
大乗の堕落である、(中略)仏教とヒンズー教的俗信との野合である、ともいう。
詳細には
「シャーマニズムとテオソファー(神智学)との混同した一種の偶像崇拝教」であり、「仏教の教義とバラモンの接神論とが低級になりさがって(以下略)」できたものであり、「大乗仏教の教義および神話学の堕落の帰結」であり、「仏教がヒンズー教の中に溶け込んでしまう道程」なのである。それは、「大乗仏教の教義を悪用して」「苦行や魔術を捏造した」「まったく言語道断なもの」であり、タントリズムにいたって、「仏法は全くすたれてしまった」
プサンの主張に、賛成でも反対でもない。プサンの主張は、大乗にも当てはまるのではないか。
秋津洲大乗及び密教を分けざることは別の意味あり
伝教が帰国ののちは空海が尊重されて大密混ざる
第三章「密教の展開と滅亡」では
七五〇年を過ぎるころから、仏教は全国的規模ではインドに存在しえなくなる。南インドは『金剛頂経』やナーガールジュナ(竜樹)を産んだ仏教の本拠であったけれども、その保護者であるバッラヴァ王朝が、チョーラ王朝の攻撃で滅亡してからは、この地の密教徒はすべて北方のオリッサ地方へと逃亡するほかなくなる(括弧内略)。
ここで不審なのは、密教徒は保護者が無くなっても生活できる。滅亡したのは、王朝の保護のみで活動してきた僧団ではなかったか。
これと別にマホメット教徒(回教徒)に圧迫されていた西北インド・西南インドの密教徒たちも東進をはじめ、(中略)ベンガル・オリッサの地方をその根拠地とするに至ったのである。
この密教徒も同じ。このあと、西南インドと南インドと並べて「小乗仏教の中心地であった西北インドの仏教者たち」の三つが
仏教にとっては、新天地ともいうべき東インドにその最後の根拠地を移さざるを得なくなった。ここにその思想と実践に大きな変容が行なわれたのは当然のことであった。
どのように変容したかも、知りたいものである。
従来の仏法このとき西南のインドに消えず残りたか 東インドへ移る後密教含めどう続くのか
反歌
オリッサとベンガル最後の仏法地関心は湧くその後の流れ
パーラ王朝の仏教保護は、「仏教大学」の建設と維持・保護(中略)大学は一二〇三年滅亡(中略)同時に、インド仏教の滅亡であった(以下略)
ナーランダー僧院の滅亡も数十年前なので、「仏教大学」の滅亡がインド仏法の滅亡は、やや誇大であらう。ベンガルには仏法がその後も残った。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百六十三)
「初期仏法を尋ねる」(百六十五)
メニューへ戻る
うた(一千三百七十四)へ
うた(一千三百七十六)へ