二千八百三十三(うた)「アジア仏教史 インド編 Ⅲ大乗仏教」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月二日(水)
平川彰の駄論に対する口直しで読み始めた「アジア仏教史 インド編 Ⅲ大乗仏教」は、「はじめに」が酷かった。
インドの仏教の中で、(中略)最も大きい足跡を残したのは大乗仏教である。部派仏教の中でも、たとえばセイロンに伝えられた上座部のように(中略)とうてい大乗仏教の比ではない。密教の(中略)これまた大乗仏教に及ばないのである。
最初の赤色は、中国へ伝はったことを言ったのだらう。中国には従来仏法の経典も伝はった。戒律は、従来を用ゐた派と、独自の戒律を用ゐたところもあったであらう。
二つ目の赤色「たとえば」は、部派の流れがセイロン上座部以外にもあるなら使ってもよい。一つしかないのに「たとえば」は変だ。なぜこのやうな間違ひをするのかは、大乗仏法を大きく見せたいことしか、頭にないからだ。
中国は経については学問と故に従来軽く扱ふ
反歌
従来は律と止観に技があり止観の観に学問があり
大乗とは元来、誇称であり、これに対する小乗とは大乗の徒が相手側に投げつけた賤称である。
としながら、改行さへせず続けて
釈尊滅後、五百年ごろにあらわれた革新的仏教運動家は、みずからの立場を大きな救済の乗物(大乗)と称揚し(以下略)
と十二行に亘り、偏向した論を展開する。このやうな駄作を書いたのは静谷正(まさ)雄(お)と勝呂信(しん)静(じょう)。前者は、竜谷大学文学部卒、竜谷大学教授とあるので、真宗大谷派だ。同派は寺男(自称、住職)でも俗名みたいな人もゐるのかも知れない。後者は、東京大学印度哲学科卒、立正大学仏教学部教授。日蓮宗の、坊主だか妻帯ニセ坊主かは不明だ。
小生は、大乗以前を「従来仏法」と呼ぶやうにしてゐる。蔑称を用ゐる者には、対抗して寺男、妻帯ニセ坊主と蔑称することにした。
七月三日(木)
第一章に役立つ情報はほとんど無く
南インドという語は、ヴィンディア山脈以南(中略)を指すのに用いるが、一般には、デッカン高原と、それより南の(中略)タミル地方やアラビア海に沿ったケーララ地方とに分けて(以下略)
前者はインド・アーリア語、後者はドラヴィダ語族である。
アミダ仏と(中略)極楽浄土の思想は、多くの学者によってゾロアスター教の影響をうけて成立したと考えられてきた。
そして
弥勒仏についても(中略)イランの太陽神ミスラの影響をうけて生まれたとか(以下略)
大乗が生まれる時は 周辺の文化が入り修行法大きく変はり 仏像と読経進み止観退く
反歌
像と経戒定慧とは別次元しかし唐では戒定守る
仏法以外の状況は
二大叙事詩以降の宗教をヒンドゥー教、以前のものをバラモン教、とよんで区別することが行なわれている。
この解説は、平川彰「インド仏教史」と矛盾してゐる。平川は「ヒンドゥ教もバラモン教の哲学や神話・風俗等を採り入れ(中略)社会の上層階級の支持を受け」「インド土着民族であったドラヴィダ人等の宗教と結合して、ヒンドゥ教に変容」と自身が矛盾した二説を書くが、どちらかと云へば、後者に近い。それにしても、ずいぶんいいかげんなものだ。
バラモンの開いた教育機関や仏教の僧院では、(中略)さらに医学が教授された。 (中略)また獣医学の詳しい著作が初めて現われた。(中略)六世紀にはペルシャの医師がやってきて、インド医学を学んでいる。
他宗教では
前代から民衆の宗教として広まりつつあったヒンドゥ教は、グプタ時代に入って社会の上下に普及した。ヒンドゥ教の聖典とされる二大叙事詩(中略)が、いかに人々から愛好されたかは想像にかたくない。
ここから先は仏法の話に戻るものの、偏向が酷く読むに堪へない。(終)
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