二千八百三十一(うた)平川彰「インド仏教史 下」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
七月一日(火)
平川彰「インド仏教史 下」に入り、下巻は第四章から始まり
竜樹(一五〇-二五〇年ごろ)以後(中略)を収めた。しかし政治的にはインド仏教の区分は、グプタ(Gupta)王朝の建国(三二〇年)をもって境界とするのが適切である。(中略)衰退に向かうからである。

まづは、平川の言ひ訳で始まるが、冷淡に扱ったのは「政治的には」である。グプタ王朝以降、仏法は衰退するから、政治的ではなく、仏法全体的である。
無著や世親による唯識仏教の発展は、まさにグプタ王朝の時代であった。(中略)如来蔵思想の体系化も、この時代に行われている。

つまり、信者とは離れた上層部では、より発展し続けた。それは
ナーランダー(括弧内略)大伽藍は、この王家によって建立された。

によっても示される。玄奘によれば、建立されたあとも、三代の王によって南伽藍、東伽藍、東北伽藍が新築された。
仏法が衰退に向かふ理由は
バラモン教を国教として採用し、(中略)この時、ヒンドゥ教もバラモン教の哲学や神話・風俗等を採り入れ(中略)社会の上層階級の支持を受け(中略)ヒンドゥ教の壮大な寺院が各地に建立せられた。

グプタ王朝は、ヒンドゥ教を国教にしたのではない。それなのに、ヒンドゥ教は広まり、仏教は衰退した。
ゲプタ朝バラモン教を国教に ヒンドゥ教はバラモンを採り入れ進化 今へと続く

反歌  ヒンドゥ教カースト制も採り入れて今へと続く禍根の歴史
インドの周辺で仏教が次々と消滅しつつあったときに、ビハールやベンガル地方には仏教が最後まで存続した。しかしそれは王家の支援によったからであり(中略)この地方においてもヒンドゥ教の力が次第に強まるにつれて、(中略)仏教は(中略)ヒンドゥ教化していったのであり、いわゆる「密教」に変容したのである。

初期仏法は、修行する比丘へ供養することが、在家の功徳源だった。だんだん釈尊へ供養することが功徳源になりなり、最後は神通力の行為へ供養する事が功徳源になった。史実は、さう物語る。
修行者へ供養がパゴダ供養へと 仏像供養その後に超能力へ供養密教

反歌  修行者へ供養をすれば神々もまた喜びて信徒に助力
インドの仏教は、(中略)かなり長期間存続していたのである。現在でも東ベンガル(バングラディシュ)には、数十万の仏教徒が存在しており、(中略)近年セイロンやビルマから伝来した仏教徒ではなく、昔から伝わってきた仏教徒である。

別の書籍に、対岸のビルマから伝来したとあった。どちらかは不明だが、前者であってほしいと思ふ。
このあと、第四章は第二節から第九節まであるが割愛した。その理由は、これらが中国仏法の各宗へどう影響したか、達磨はどこから出たのかに一切触れてゐない。中国の各宗が、日本へ渡来したから、これらに触れないのでは、日本に無益だ。

七月二日(水)
第五章「秘密仏教」では
インド密教の独立は、大日経の出現の時であると見るのが一般の説である。(中略)しかしそれ以前にも陀羅尼やマントラを説く経典があるために、(中略)このような祈禱主義の仏教をも考察することとし(以下略)
仏教の呪術的性格は、大乗経典において一段と高まったが、(中略)その起源は原始仏教の経典までさかのぼる。

当時と現代では、科学と非科学の境界が大きく異なる。当時の原始仏教は、呪術的とは考へなかったのではないか。同じく、密教宗派も自分たちを呪術的とは考へなかったのではないか。現代に於いて、医師が処置や投薬を呪術と考へないのと同じである。天台の四教について
この場合の秘密教は、真言密教の秘密仏教とは関係がない。天台大師の時代には、まだ真言密教は中国に伝来していなかった。

「第二節 原始仏教時代の秘密思想」を終へ、「第三節 大乗仏教より密教へ」に入ると
原始仏教には、呪文や呪術は少なかったが、大乗経典には密教の要素が多くなっている。その理由の一つは、大乗経典が発達したクシャーナ王朝時代の北インドは、多くの異民族の接触・混合の地であり、そのために異民族の呪術的な宗教が大乗仏教にも流入し(以下略)

このあと仏像や菩薩像が作られたことが、密教の印相に発展したとするが、これは半信半疑だ。部派仏法でも仏像は作るやうになったが、印相に発展はしない。それは大乗も同じだ。
次にはヒンドゥ教が現われて、これが仏教に影響を与えた。インド古代には最初はバラモン教が盛んであったが、その後、中インドに仏教やジャイナ教が現われて、バラモン教の勢力は弱まった。しかしその間にバラモン教は、インド土着民族であったドラヴィダ人等の宗教と結合して、ヒンドゥ教に変容したのである。西紀前二世紀ごろからヒンドゥ教が盛んになり、とくに農民の間に強い勢力を持っていた。そして(中略)大乗仏教には、ヒンドゥ教の神々が多く採り入れられ(以下略)

第三章ではヒンドゥ教が、グプタ王朝時代に国教のバラモン教を採り入れて進展したとある。今回は西紀前二世紀から伸びたとあるので、矛盾してゐる。
密教は軽く触れるに留まるの筈が大きく広がるは 原始仏法ヒンドゥ教仏像及び周辺民族

反歌  周辺の民族及び仏像が大乗を生み密教を生む(終)

「初期仏法を尋ねる」(百六十一)

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