二千八百八(うた)大唐西域記
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十六日(月)
此れまでに「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」で旅行の様子を紹介したので、今回は今までに無かった情報を紹介したい。「贍(じゃん)部洲四主」の章だが、贍部洲とは閻浮提で、全世界のことだ。
時によって転輪王の時運に応(あた)ることなく、世に出てこない場合は、贍部洲の地には四人の君主がでる。南は象主で、暑熱の地は象に都合よく、西は宝主で、海に臨み宝に(漢字略)みちている。北は馬主で、寒さ(漢字略)きびしく馬に都合よく、東は人主で、温和で人が多い。

ここまで読み、自国の悪弊には慣れてゐるが、他国の悪弊は目立つ。もう一つ、平和な時代が続くとそれに合ふ人が多くなり、戦が多いとそれに合ふ人が多くなる。だから、戦国時代末期の日本人と、江戸時代末期の日本人は性格がまったく異なる。唐も同じだった。
象主の国は烈しい気性で学問に熱心であり、特に異術に閑(よく)する。(中略)同一の種族は部落をつくって集まり、家やかたは数階の閣をなしている。(中略)馬主の習俗は天性あらあらしく人情は殺戮を意に介しない。(中略)人主の地は機敏で仁義は世に明らかである。

自国賞讃が甚だしいが、平和かどうかが大きい。
心を清くし欲を去る訓(さと)し、生死の悩みをはなれ悟りを得る教えは、象主の国がその道理にもっとも優れている。

さて
仏陀は西方に興り、仏法は東国に伝わったが、通訳の音を訛り、方言の語を繆(あやま)ることもあった。音が訛れば義を失い、語が繆れば理に乖(そむ)くこととなる。

なるほど玄奘がインドへ行ったのは、さう云ふ目的だった。

六月十七日(火)
高昌の故地を出て近いものから始めれば、まず(漢字略)あぎに国である。

高昌の解説は
今の新疆省(漢字略)トルファン東南東の(漢字略)カラコージャである。(中略)高昌は古来漢人・漢文化の勢力圏であったから、玄奘は(中略)当地に最も近い所から始めたわけである。

とある。そして一番近いのはあぎに国、二番目はクチャ国だが、どちらの国も、まだ漸教にとどまり、の記述があり、玄奘は漸教より頓教が勝れると思ってしまったやうだ。
バールカー国のところに、ソグド人の記述がある。解説には
ソグド人はイラン系の民族で、九世紀に最盛に達し、東トルキスタンから蒙古、中国本土にまで居住するもの多く、その言語は一種の国際語にまでなっていたようであるが、やがて十三世紀のはじめチンギス・ハンの侵入によりほとんど根絶するに至り、わずかに露領TadjikistanのYagnob河流域地方に逃げのびたものの子孫だけが今日まで残存している。そのYagno-bi-語はソグド語の後影といわれている。

ここから約三十ヶ国は特筆すべきものは無く、バーミヤーン国に至る。ここは説出世部を学習する。解説に
大衆部の分裂最初のものとみられる。世間法も出世間法も仮(け)名(みょう)(虚妄)で実体なしと唱えたのが根本大衆部である。しかし、涅槃などの出世間法が仮名であるというのはおかしいと反対し(中略)たのが説出世部である。この派は中インドより西北インドにかけて盛行した。

無駄な議論で分裂したものだが、本当の原因は別にあるのではないだらうか。これで巻第一が終了する。
唐を出てインドへ着くの合間には 膨大な数の国があり 二十に近い仏法もある

反歌  部派のうち部の数大乗補ひて兼学加へ合はせ二十か
部派二十部のうち、登場するのは七つ程度か。大乗もそれくらいあると考へ、兼学もそれくらいあると見た。(終)

「初期仏法を尋ねる」(百五十) 「初期仏法を尋ねる」(百五十二)

メニューへ戻る うた(一千三百四十七)へ うた(一千三百四十九)へ