二千八百一(うた)昼光の浴室とまさごの湯、長野と松本の話題、木の香り
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十一日(水)
日が延びたので、家で入浴するときに外が明るいことが多くなり、これは小生の好みだ。その根源は、浅間温泉のまさごの湯にある。小学生の時は、夏になると一家揃って母の実家へ泊まった。共同浴場は、まさごの湯を使った。一家族で一ヶ月ごとの定額制で、木製の20cmくらいの鍵を扉の下部に挿しこむと、開けることができた。男女別々の浴場だが、それぞれ四人入ると窮屈になる広さだった。
建て変へを機に銭湯となり、住み込みの管理人が番台を兼ねた。しかし昭和六十年頃だらうか、再び定額制に戻った。だから二年前に下の子と行ったときは、まさごの湯には入らなかった。
小学生の頃に、まさごの湯は昼間行ったので、電灯は点けず、窓の昼光で入浴した。根津時代に、日曜の午後三時に銭湯へ行くことがあった。開店したばかりで、ゆったりと入浴できた。このときも浴場は昼光だった。しかし脱衣所は、蛍光灯が点いてゐた。銭湯によっては、脱衣所に中庭のあるところがあり、さう云ふところは或る程度明るかったと思ふが。
休みの日明るきうちに行く風呂は 太陽光の明るさに 電気と違ふ幸せがあり

反歌  太陽の明るさによる入浴はゆとり在る日のくつろぎの時

昔の都電愛好仲間とのやり取りで、長野松本関係が幾つかある。それを紹介すると
・長野運転所は北長野だが、長野駅構内に第一分所、第二分所があった。昔の機関区、客貨車区。旧機関区が先に無くなり、旧客貨車区は昭和五十二年頃まだ稼働中なのを見た。
貨車区は篠ノ井へ移転したが、今はすっかり寂れて空き家状態。
小荷物の集積所が北長野にあった。隅田川で手荷物のアルバイトで北長野宛てに発送した。
松本は、留置線と洗浄線が扇形で、品川と似ていた。昔はDE10かDD13が駐留していた。
・昔は、北松本に松本運転所北松本支所があった。電車庫や留置線からの線が北側の引き上げ線へ集まらないうちに、踏切があった。普通は引き上げ線から本線に入るところが駅区境界だが、或いは踏切の南側の各線に駅区境界があったかも知れない。今となっては確認できない。更にその外側に小さな、貨物扱い所の一線があった。東京の南千住は貨物扱い所が無く、これは隅田川駅が近くなので当然だが、北千住は小さな貨物扱い所があり、北松本は似ていると感じた。
・飯田線の伊那松島機関区は、車両連結面の全般検査を表示する欄の横にママキクxx(x)休車、を複数書いたものを見た。複数回休車になり、検査周期が延びたのだらう。
買収私鉄時代の名残りを、北松本と伊那松島で感じた。国鉄時代の、統一の中の多様性の美、かな。今のJRは非統一で、そもそも美が無い。
・松本電鉄は社長を滝沢一族が三代続けた。伊藤左千夫の歌に、浅間温泉滝沢本家にて詠んだものがあるので調べると、滝沢本家出身だった。文学史上も、滝沢本家は同人の家だらうか、との想像(小生は、最初さう考へた)は間違いで、旅館だったことを明らかにできた。
松本駅前から、普通のバスはバスターミナル発なのに、浅間温泉行のみ駅前から発車するようになった。路面電車ファンから見ると、昔の路面電車の姿に戻ったみたいだ。営業所が廃止されたのは残念だが。
(追記)その後、右回りの循環線も駅前に移ったことが分かった。浅間橋まで共通なのに、バスターミナルと駅前に分かれるのは不便だし、駅前が混むだらう。最初は、信大病院へ行く人への便宜かな、と思った。

浅間線電車面影駅舎消え代替バスも二往復半


三週間と三日前に、応接間の荷物を片付けた。すると木の香りがする。応接間の床を貼り替へたのは、我々が横浜から移転する前なので七年以上前で、おそらく九年くらい前だ。その後、香りはしなくなったと思ったが、七年前から置き出した荷物を片付けると、香りが復活したのだから不思議だ。
三週間と三日が経過しても、香りは続く。
木の香り日が明るきの入浴と同じ幸せ無事に暮れ行く
(終)

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