二千六百十八(朗詠のうた)茂吉の歌
新春前甲辰(西洋発狂人歴2025)年
一月六日(月)
茂吉の赤光(初版)を読み始めた。最初の段落は「悲報来」。
ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし

「わが道くらし」が重複するが、その次の一首にも「わが道くらし」が出てくる。茂吉の慌てぶりが分かり、茂吉の歌集は、連作として鑑賞する必要があることが判る。
暗き道急ぎ走るは亡くなるの電話を受けてただ走るのみ

あかあかと朝焼けにけりひんがしの山竝(なみ)の天(あめ)朝焼きにけり

朝焼けにひがしの空は八ヶ岳蓼科までは雲あかあかと

段落の最後に
七月三十日信濃上諏訪に滞在し(中略)湯壺に浸つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。

とある。初版の赤光は、新しい順に並ぶので、左千夫死去の混乱はこれのみだ。このあと狂人が一人死んだだととか、殺人未遂者の精神鑑定で監獄に来たなど、嫌な歌材が続く。その後に「死にたまふ母」は四つの段落合はせて五十九首が載る。
みちのくの母の命を一目みん一目みんとぞいそぐなりけり
うち日さす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり

みすずかる信濃のじいさん亡くなりて急ぐも生きて会へるに非ず
うち日さす都を離れ山裾へ暗闇の家弔ひはすぐ


一月七日(火)
上野なる動物園にかささぎは肉食ひゐたりくれなゐの肉を

生き物は上野の園に不忍の池と五つ重(え)塔(あららぎ)もあり

塔(あららぎ)とは仏塔のこと。伊勢神宮が仏塔をさう呼んだ。小生は和語で揃へる為に用ゐた。
森かげの夕ぐるる田に白きとり海とりに似しひるがへり飛ぶ

赤坂区茂吉住むとき森かげと田と白き鳥あるを喜ぶ

次は
道のべの細川もいま濁りみづいきほひながる夜の雨ふり

いつもなら澄む細き水目を引かれ見るといきほひ濁る雨水

次は
秋のあめ煙りて降ればさ庭べに七面鳥は羽も広げず

煙る雨美し歌と七面鳥赤坂区にてこれは驚く

次は
うつくしく瞬きてゐる星ぞらに三(み)尺(さ)ほどなるははき星をり

幼きの頃に夜空を見上げれば 見えることなし天の川 だがうつくし星幾つかを見る

反歌  その後は同じ所で空見ても星はほとんど見えることなし


一月八日(水)
最終章の「自明治三十八年/至明治四十二年」の途中から、美しい表現が多くなる。その一方で、内容は実効を伴はないものが多い。尤も、狂人死すだとか、醜い内容より遥かによい。そのやうな中で
火の山を繞(めぐ)る秋雲(ぐも)の八重(二文字で、やほ)雲(ぐも)をゆらに吹きまく天つ風かも

火の山は煙を出さず穏やかも麓の箱根硫黄と湯気出す

次は
天なるや群がりめぐる高ぼしのいよいよ清し山高みかも

高き山麓で空を見上げれば群がる星をより遠く観る

次は
八百(二文字で、やほ)会(あひ)のうしほ遠鳴るひむがしのわたつ天(あま)明(あけ)雲くだるなり

八百会に波高くとも風は無くすぐ治まりて船静かなり

初心忘れるべからずと云ふが、茂吉は作り続けるうちに美しさを忘れてしまった。それに代はる、連続性、希少性(海外など)を得たが。(終)

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