二千六百(うた)最新の歌論(牧水、啄木、本歌取り)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月二十三日(月)
牧水の歌集は、歌が連続する。その流れを味はふと佳さが分かる。次に、牧水が勝れるものは、風景と旅情だ。だから、生活の歌も連続であり、日記風に牧水の生活を知るのに興味は湧くものの、美しさは無い。
牧水の人生は、恋愛問題と酒と鬱状態と退廃に、明け暮れた。そこに物語性がある。
牧水は普通の人と異なれる人生自体文芸に 若死にするもまた物語

反歌  牧水の退廃と鬱結婚で解消するも酒は治らず
反歌  牧水の放浪はまた旅と呼び歌作りにて帳尻合はす
もし牧水が歌を詠まなかったら、放浪癖で人生落伍者になってゐた。
(1.08追記)牧水が爆睡するとまづ肝死次に全身永き眠りに

十二月二十四日(火)
啄木は、前に歌集を読んで、小生にはまったく合はなかった。今後、啄木を読む機会は永久に無いと思った。それなのに啄木の書籍を二冊借りたのは、啄木が死ぬ直前に牧水が薬代工面のため苦心したからだった。牧水と啄木の交流は一年二ヶ月。
歌風はまったく違ふのに交流が続いたのは、境涯が似ると感じたのかも知れない。しかし牧水は、雑誌の出版でお金に困ることはあっても、生活に困ることは無かった。啄木は、何回か雇用されたのに裏切る形で退職した。啄木は、一部の歌に見られるやうに、根性が曲がってゐた。
小生は、歌作りに止観の効果がある、とする立場である。一方で啄木は、父親が曹洞宗の住職でありながら、心の曲がった歌がある。立場が正反対である。今回二冊読んでも、結論は変はらなかった。

十二月二十五日(水)
本歌取りで歌を詠むときは、(1)過去の光景を思ひ出して作る、(2)本歌から情景を想像して作る。どちらも、目の前にあることを詠むのとは、異なる。
万智さんが、短歌に嘘が少しはあってもよいとした。サラダの短歌で実際は別の食べ物だったり、曜日が入る短歌でその曜日は授業の日だった。
小生は嘘をいけないとする立場だ。目の前(帰宅後や数日中に思ひ出すのを含む)の事実は、事実として詠む。それに対し、本歌取りの(2)は想像して作るのだから、嘘とは異なる。想像したものは、読む人も想像だと分かる。つまり、想像を事実のやうに作ってはいけない。
本歌取り歌を作るの新しきやり方にして 昔から今に伝はる佳作引き継ぐ

反歌  若人が本歌取りして歌を詠む新しき歌大いにおこる
会話調や破調はいけない。それを避けるために、若い人たちに本歌取りを推奨したい。反歌は左千夫の歌を本歌取り。
小生の云ふ本歌取りとは、本歌を参考に歌を作ることだ。これまで牧水と啄木の本歌取りをしたが、本歌とは表現に共通点の無い歌も多い。本心取りと呼ぶこともあった。(終)

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