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若山牧水全集
二千五百八十三(朗詠のうた)若山牧水全集(増進会出版社)第六巻
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月十日(火)
第六巻は、歌集「白梅集」に始まる。第一章「夏の歌」では
さわさわに朝風吹けば深みどり椋はそびえて大空曇る
本歌取りして
朝風が僅かに揺らす庭の枝低く広がる雲は動かず
次は
夏草の茂りの上にあらはれて風になびける山百合の花
草の息茂みの上に見え消える前歩く人山道険し
次は
蓮ひらくしらじら明けに不忍の池にまひ降るる白鷺のむれ
蓮の葉がすべてに続く不忍の池へかわうはすき間を降りる
「秋の歌」の章は飛ばし、「冬晴」に入り
多摩の川真冬ほそぼそ痩せながれ音を立つるか冬の夜ふけに
多摩川は羽村飲み水痩せ取られ汚れを除き使はれ水が
多摩川の下流を流れる水の多くは、下水処理水だ。「春浅し」に入り
ゆきずりに日日見て通る椎の樹の梢あからみ春は来にけり
日々歩く道の木の芽は伸び始め星熱くなる嬉しさは無し
水上旅行の後、牧水に集中なので「其二 貴志子作」は、今回割愛した。
十二月十一日(水)
歌集「さびしき樹木」へ入り
さやさやにさやぐ青葉の枝見つつ沖の白浪おもひゐにけり
山道に葉のさやぐ音(ね)を聴きながら頂に見る白雲の群れ
白浪を白雲にするところは、本歌取り名利かな。次は
独り居て見まほしきものは山かげの巌が根ゆける細渓の水
巌が根を涸れないほどの流れにも下り合はさり利根川の水
「流れにも」は、普段だったら「流れでも」と作るところだ。本歌からは語句だけではなく、響きも無意識のうちに見倣ふ。
膳にならぶ飯も小鯛も松たけも可笑しきものか酒なしにして
牧水は、貧乏なほうだった。奥さんが不機嫌になったり、雑誌出版で借金を抱えたりしたこともあった。贅沢言ってはいけない。しかしこの歌が一番悪いのは、破調だ。「さびしき樹木」は破調が多い。
牧水は松茸小鯛有難く頂くべきに奢(おご)りはいかぬ
奢りは贅沢の意味。驕りや傲り(どちらも、得意わがままになること)とは異なる。牧水はこの時期、驕りにもなったかな。
十二月十一日(水)その二
歌集「渓谷集」は低調で、家にての歌は、特に低調だ。破調が目立つのも難点だ。第二章「秩父の秋」は
朝山の日を負ひたれば渓の音冴えこもりつつ霧たちわたる
一句二句と、三句四句が無関係だ。一句二句は五句に掛かるから無関係でもよいとも云へるし、写生だと云ふこともできる。しかし写生が売り物のアララギ派から逆に、批判されるに相違ない。
朝山は陽がまだ背にて前側は黒ずむ緑鳥一羽二羽
次へ行き
渓おくの温泉(二文字で、いでゆ)の宿の間ごと間ごとひとも居らぬに秋の日させり
山奥のいで湯は宿が一つのみすべての間開け音一つ無し
「上総の海」の章では
さしのぼる朝日のかげの濃くなれば早やけぶりたつをちこちの浪
陽が登り山の前側明るみて緑輝き静けさ照らす
次は
うすいろの大あめつちと今を見よひんがしの海に月さしのぼる
黄金色仏は雨に剥げるとも護るあめつち今も輝く
「伊豆の春」に入り
枯草の小野のなぞへの春の日にかぎろひて咲く白梅のはな
真夜中に雨音のする宿の朝浜のなぞへの浪音と知る
共通点は「なぞへ」だけだから、本歌取りではなく、無関係な歌だ。牧水の使った「なぞへ」「かぎろひ」が気に入ったので、使はうとして、一つだけになった。歌の作り方として、気に入った語を使って作るのは一つの方法だ。小生の歌は、鴨川市の市営療養施設(平成二十七年に廃止。泊ったのは平成二年)での体験だ。(終)
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