二千五百七十七(朗詠のうた)最新の歌論(三種の歌、浮んだ文と歌論の文、本歌取りの本歌取り)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月五日(木)
牧水全集で、左千夫一門の批評を読み、歌には三種あることに気付いた。
一、単独の歌
二、連続する歌
三、散文の中の歌
勝れるかどうかは、種類によって異なる。連続する歌は、流れで鑑賞すべきだ。散文の中の歌は、実効で鑑賞すべきだ。単独の歌は、(イ)文字を見て、或いは(ロ)読み、或いは(ハ)声に出して読んで、鑑賞すべきだ。
和語のみで歌を作る特集を最初、(和語のうた)と付けたが、後に(和語優勢のうた)も出来た。これが自然消滅の後に、(朗詠のうた)を作ったが、普段は朗詠して作る訳では無い。この矛盾の理由を考へると、散文の中へ入れるからであった。上記の三で、一(ロ)ではない。
牧水は朗詠を好んだが、朗詠して作ったとは思へない歌も多い。牧水は(二)か。

十二月六日(金)
アラゝギに載った牧水への批評を読んで、左千夫一門は歌論に従って歌を作った。或いは、歌論を作る為、歌論を改良する為に、歌を作った。
それに対して牧水は、心に浮かんだ文章を定型化する。小生も、この作り方をする。それでも「千樫曰。牧水君の歌は総じて想も趣味の持ち方も吾々と共通して居る所が多い」とあるので、歌界全体で見れば歌風は似る。
左千夫<<小生<牧水、かな。左千夫との間隔は二つだが、牧水とは一つなので、牧水に近い。
浮びては消える心の波音を 文に留めて一つ目に 歌に直して二つ目に 佳き歌にして三つ目と為す

反歌  佳き歌に詞を消してほかを入れその繰り返し美しと為す

十二月七日(土)
本歌取りした歌を更に本歌取りをすれば、一番初めの歌とはまったく別のものが出来る。同じ部分を本歌取りしたのでは駄目だが。
古今集以後の歌が駄目なのは、この手法で作った歌が多い為ではないだらうか。尤も本家取りをしても、本歌の部分以外は駄作だと同じ部分を本歌取りするしかなくなる。その結果、部品として組み合はせるやり方になったのだらう。
歌集まりみことのりにて作るとき 邪多く後の世は似た歌多く佳きは少なし

反歌  後の世の歌の集まり美しさ求めず金や位を目指す(終)

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