二千五百二十一(うた)内山知也「良寛詩 草堂集貫華」続き
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十月二十二日(火)
(前回)から
「手把兎角杖」で始まる詩の解説は
この詩は「身見」を否定する偈である。身見は我見ともいい、身体の中に実体としての我があり、その我によって認識される自己と自己の所有物は実存するものであるとする考えであって、仏教では誤った見解とされる。

寒山詩にも似た詩があると云ふ。飯田利行さんは「虚仮」の語を使ふが
「虚妄」と言った方がわかりやすいのではないだろうか。

内山さんに賛成。
身見は瞑想法の一つとの思ひこれまで続くとも 欲を捨てるに最も近し

反歌  身見を妻帯僧は保てるか我が子の欲も親欲として
「古仏留蔵経」で始まる詩について訳文のなかに
智者は経を読めばすぐに理解して、永遠にさとりの世界に入った人になる/ところが愚者は経典のことばにことさらにこだわり(以下略)

良寛和尚が、他宗にも理解を示した理由である。と同時に、良寛和尚は覚ったのではなければ、かう云ふことは云へない。
「宇内有其人」で始まる詩について
良寛の自己顕示欲が表れた偈と見るのは入矢氏であるが、おそらく良寛の尊敬する神通力をもつ古仏・聖者・仏を詠じたものであろう。

内山さんに賛成。詩にある『虚空をひょいとつかんで山を作ってみせたり、石を震動させて波浪を起させたりするのだ』を出来ないことを、良寛和尚はよく知ってゐた。更に、良寛和尚は農村で托鉢をするのであって『時にはにぎやかな町へ出かけていって、通行人に向って手をのばし、「一銭でいいから下さい」などと乞食をするのだ。』をする筈が無い。
神通力良寛和尚の詩や歌に出て来ないのは 持たざるを自身知る故顕示に非ず

反歌  街中で一銭を請ふ事は無し恐れ入矢の鬼の子主張

十月二十三日(水)
「昨日之所是」で始まる詩の後半は、訳文で
愚かな人たちは固定観念にとらわれる結果、何をやってもぎくしゃくしてしまう。/一方、知恵のある人はその道理をわきまえているから、なりゆきに従ってそのまま時を過してさからわない。/こういう愚者と智者とのどちらにもつかず、さらに高度な立場に立ってはじめて、有道の人と言うことができるのだ。

最後の一行で、小生も最初は戸惑った。
入江氏は「改めて高次の立場を提示する必要があろう」と述べて、この詩にはそれがないから不充分な未完成の作品だと指摘している。

内山さんは、寒山詩に類似した作品があるとし
「継」を「絶」に作っている本(岩波文庫本)があるので一概には言えないが、知愚を超えた世界にある人物を想定しているのであろう。

とする。小生は、昨日の「智者は経を読めばすぐに理解して、永遠にさとりの世界に入った人になる/ところが愚者は経典のことばにことさらにこだわり(以下略)」に、それでは不立文字に反するし、坐禅をする意義がないではないか、と疑問を持った。今回の「愚者と智者とのどちらにもつかず」で合点が行った。とは云へ、昨日の「永遠にさとりの世界に入った人になる」は褒め過ぎだと原文を見ると「永く像外の人と作(な)る」。決して、永遠のさとりでは無かった。
「妾家在長州之旁」で始まる詩は
良寛が詩経や楽府古詩の素朴簡雅な情趣を愛していたことが知られる。

良寛和尚が若い時に関係した女性だと、短絡する人が多い。内山さんの解説は適正だ。
「行到山下道」で始まる詩について、解説は
歳月の推移の前には、墓碑に刻まれた人名すら風化して消えてゆく。まして生前の名誉や地位などは(中略)。良寛の墓地を題材とする詩は、すべて中国古来のこの種類の無常観を表現する伝統に沿っている。

なるほど。
「青陽二月初」で始まる詩の最後の部分
通りがかりの人がわたしを見て、どうしてまりなどついておいでかねと聞く。(中略)はい、もともとこれをこうしているだけのことです。

その二つ先の詩「孤拙者兼疎慵」で始まる詩の最後
まあ元気いっぱい日々を暮らしているのさ。

後の詩の解説に
「生涯童心」これが心の中に浮び上がった答えだった。

この解説は一つ目の詩にも当てはまり、良寛和尚が覚った姿と見た。
「子短兮褊杉長 騰騰兀兀只麼過」で始まる詩のこの部分は、僧衣を着てxxxxx。後半のxxxxxは、
渡辺氏は(中略)「身まま気ままに」と訳し、入矢氏は「のほほんもっそり」と訳し、飯田利行氏は「のんびりと屈託なしに」と訳している。

ここでも入矢さんの訳はよくない。
のほほんの恐れ入矢の鬼の子は母には非ず神にも非ず

入谷鬼子母神をもじった。
寒山詩には無く、白居易の「題石山人」に在るさうで
石山人の俗人と交わりながらなお超越者である人間像を指すもので、良寛はこういう石山人を愛し、心に模範としたのではなかろうか。

賛成。
「十字街頭乞食罷」で始まる詩の最終行「去年の癡僧 今復た来ると」を、とかく悪く解釈する人が多い。子供にまで馬鹿にされたと。しかし内山さんは解説で
老人で僧形であっても、「あの坊さんはばかみたいだから安心だ。遊んでくれるよ」という喜びの声をあげる。

これも賛成。
「投宿破院下」で始まる詩の解説に
行脚かあるいは托鉢をして、適当な宿がないとき、良寛は住職のいない荒れ寺に泊る。寝具があるわけではなく(中略)ひたすら坐禅を組んで寒さや飢えを超越する。夜が明ければ又歩き出す良寛である。

良寛和尚を、僧俗の中間と見る人が多い。実際は、僧が寺請け制度で贅沢になり、俗より俗化したのに対し、良寛和尚は俗化前の僧を保ったのであった。四十年近く前に「僧は俗より出でて、俗より俗し」と云ふ格言を読んだことがある。(終)

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