二千三百五十六(朗詠のうた)義父母の墓
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月三十一日(金)
義父母のお墓は、名取市の天苗山秀麓齋にある。お寺のホームページによると
寺号「齋」は全国的にも珍しく、日本三斎の一つといわれています。「齋」は書院の意味ですが、寺と同義であり、伊達家が書斎のように使っていたために名付けられました。

義母が亡くなったときは、仙台市営墓地で、先祖代々の宗旨と同じ曹洞宗の僧に出張で来てもらった。法話が上手なので、菩提寺は固定せず、墓管理と法要を分ける上下分離方式がよいと感じたのはこのときである。
その後、市営墓地は遠いのでお墓を探し、秀麓齋に落ち付いた。ここも曹洞宗である。お寺のホームページに戻ると
開創は延暦十七年(798年)征夷大将軍 坂上田村麻呂が奥州に蝦夷平定の軍を進めるにあたり戦勝と天下泰平を祈願するため、信仰する西国清水寺の観世音をこの地に勧請したことに始まる。

勝ち戦祈るのときはお寺にて 殺さずの戒例外と誓ひを立てて戦へと 昔を偲び観世音見る

反歌  社でも別当の寺が管理する殺さずの戒例外として
大同二年(807年)比叡山伝教大師の法子 義 法師(原文どほり)を開祖とし、天台宗に属し、(中略)室町期文明年間(1469~1486)大本山總持寺直末、越後国岩般郡村上の霊樹山耕雲寺四世 瑚海仲珊大和尚を勧請開祖とし天台宗を曹洞宗に改宗した。

地図で調べると、名取駅から歩いて一時間、バスだと降りた後徒歩十五分。第一日曜の朝六時半から座禅会があり、参加しようと時刻を調べたが、前日行かないと無理だ。妻と妹の海外旅行は、義父の死で延期になったので、母を短期宿泊させる。それに合はせて座禅会に参加しようと思ったが、第一日曜ではない。
似た話に、玉島の円通寺がある。ここは坐禅会が毎週日曜朝にあるので、良寛荘に宿泊しようと調べたら、土曜の宿泊は満員だ。土曜が満員になる話は宿泊時に聞いたので、てっきり坐禅会に参加する人が多数宿泊するのだと思った。ところが、祝日の前日もやはり満員だ。そればかりか、日曜は比較的空いてゐるものの、火曜以降はやはり満員が多い。坐禅会に参加する為ではないやうだ。
観光と坐禅会参加を同時にやらうとするから、かう云ふことになる。お墓参りとして秀麓齋に行くか、それとも当初の計画どほり大阪にするか、心は揺れる。
地図では秀麓齋の近くに、那智神社宿坊跡がある。名取市のホームページによると
名取熊野三社については、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して、本宮、新宮、那智の三社が他の地域と異なり(中略)社も別々に建てられ、縮小版的で、まさに、紀州熊野三山の世界を再現するかのような勧請のされ方は、(中略)東北太平洋沿いにおける熊野信仰布教の一大拠点としてふさわしい姿であったと考えられます。

更に
本宮社南背後の名取熊野深山霊域ともいうべきところには、中世の熊野堂大館跡、小館跡が所在していました。
また、旧新宮社付近は、神社を中心に旧参道の東西へ別当坊や学頭坊をはじめとする宿坊群跡(17坊)が所在しており、特に宿坊の一つの往生院跡の西側一帯にある大門山には、熊野信仰に関連する大規模な中世の墓所・供養所(板碑群が所在)が確認されています。
さらに、那智神社付近には、那智経塚群をはじめ、那智神社別当物響寺跡、中世の山城である高舘城跡、那智神社宿坊跡が所在しています。

明治には狂ひた人が神(かみ)仏(ほとけ)分けたがために負け戦へと

義父は、母音数の少ない奥羽方言の最後の世代といへる。今から五十年ほど前に、東北方言と思はれる人が栃木県出身と聞いて、母音数が南関東と同じなのが北関東、少ないのが奥羽。しかし語彙は似ることを知った。かつて日光猿軍団の方も、北関東の話し方で人気を得た。
奥羽地方は、その後母音が南関東と同じになり、云はば北関東化したといへる。
義父より若い世代では、小生より少し上あたりで母音の少ない話し方の人が福島県浜通り地方にゐた。福島原発事故で集団避難したため、今では消滅した。(終) 

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