二千三百三十八(朗詠のうた)田原訪問記(渡辺崋山)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月十一日(土)
NHKで渡辺崋山を観たので、田原市博物館を訪問した。画家として極めて優秀だった。これがテレビを観たときと、そのあと調べたときと、今回田原市博物館を訪問した時と、三回とも感じた。
長英と崋山を罪に徳川の悪き行ひ国を亡ぼす

長英と崋山は、それまでの歴史に繋がる人たちだ。松陰と急進派の公家は、断絶した人たちだ。その行く末が昭和二十(1945)年の敗戦だった。しかし松陰は悪くない。長英と崋山を罪に陥れたことが、松陰を過激に引き寄せた。
崋山の絵に、豊干禅師騎虎図が展示されてゐた。あと、博物館へ新たに入った作品に、良寛木像と木箱が展示されてゐた。今回の旅行は、崋山の史跡を訪ねたあと、良寛の修行した円通寺へ行くので、この偶然を喜んだ。
良寛と崋山が共に持つものは 欲無き心世の為と 大和の歌と唐の歌筆が良寛 絵が崋山 美しさある芸(わざ)と生き方

反歌  良寛と崋山が一に勝れるは生きる美しさ亡くなる後も
博物館で充実した時間を過ごしたあと、隣の崋山会館へ行った。ここにも崋山の史料が少しあり、貸会議室、式場が中心だ。公益財団法人がこれだけのものを運営するとは大したものだと、そのときは感心した。少しでも運営に寄与しようと、喫茶食事室へ行くと、カレーしかないと云ふ。どのようなカレーなのか値段が幾らなのかメニューを探さうとすると、カレーとサンドヰッチしかないと云ふ。行ったのが午後二時なので、これから食事を作るのは面倒なのかも知れない。
帰宅後インターネットで調べると、田原市の施設を公益財団法人に委託したやうだ。それで、会館を運営できる理由が判ったが、公益財団法人より下受けの食事、喫茶になると自分の都合を優先するやうだ。初心を忘れてはいけない。因みに朝、家を出る時にご飯が余るので、普通の二倍食べた。だから昼食を抜いても問題はない。崋山顕彰に協力しようと思っただけだ。
隣の崋山神社は、拝殿の前に参拝の方法が貼ってあるので、合掌し頭を下げるに留め、賽銭は入れなかった。これは崋山神社が悪いのではない。手を打つ参拝方法が貼ってあるときは、強制と同じだ。昔は神社でも合掌し、手を打つのは御食をお供へするときだけだった。だからこの紙が貼ってある神社は、どこでも合掌し頭を下げるに留める。
池の原公園では崋山蟄居の家を観た。蟄居とは云へ、家族で住み家もそこそこの大きさだ。帰りは報民倉、大手公園、藩校址の前を歩いた。

  
池の原公園                     蟄居の家

  
                          大手公園(渡辺小華)                左の拡大

  
三河田原駅まで戻ったが、途中に店はコンビニ一軒だけだ。道路が広いので、新たに区画整理したのだらう。駅前にも店は無かった。それに対し、豊橋鉄道渥美線は立派だ。三両編成が十五分に一本運行する。土曜の日中にそこそこの乗客がある。渥美半島の三河田原までは市街地が続き、生活は豊橋までで完結し、幅の狭い半島のため横へは行かないので鉄道が栄える。
豊橋では、ビジネスホテルに着くとチェックインは午後四時だ。駅まで散歩がてら戻り、荷物がだんだん重くなった。二日分の着替へと折りたたみ傘なので、今まで重さは感じなかったが、手が疲れてきた。再びビジネスホテルに戻りながらこの辺りはスナックが多く歓楽街なのかと気付いた。お寺も目立つ。
スナックで金を湯水と使ふ人 ニュースや周りで三つほど 気をつけ守れ行かぬは最善

反歌  独り身で金を湯水と使ふ人スナック行くなその身滅ぼす
富士通時代に、同僚でスナック入りびたりの人がゐた。もう一つ、歌舞伎町入り浸りの人が二人ゐた。コンピュータ業界は危ない。六十五歳まで勤めた会社でもスナック入りびたりを噂される人がゐた。
三十五年くらい前だらうか、ニュースで警察官がスナック入り浸りになりパトカーで訪れたりしたニュースを見た記憶がある。パトカーで訪れただけならニュースにはならないから、何か事件を起こした。事件そのものはまったく記憶にないほど昔の事だ。
翌朝は、朝食付きなので準備が出来る六時半まで周辺を散歩した。朝市が特定の日に開かれる大通り、神宮寺などを観た。朝食は、豪華ではないが満足なものだった。次に泊まるときもここにしようと思った。
旅に出て朝の歩きは楽しみに 皆が起きるの前の街 歓楽街も静かな道に

反歌  街の中寺と社はまづ行くが店や家並みすべて楽しく(終)

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